ペドロ・パウレタ (Pedro Pauleta, 1973年 4月28日 - ) は、ポルトガル ・ポンタ・デルガーダ 出身の元サッカー選手 。元ポルトガル代表 。現役時代のポジションはFW 。
登録名の「ペドロ・パウレタ」は愛称であり、本名はペドロ・ミゲル・カレイロ・レセンデス (Pedro Miguel Carreiro Resendes)。
プロサッカー選手として18年間プレーしたが、ポルトガルのスーペル・リーガ (1部)では一度もプレーしたことがない。経歴のほとんどをスペインとフランスで過ごし、リーグ・アン では得点王に3度輝いた。ポルトガル代表 としては88試合に出場し47得点を挙げている。FIFAワールドカップ とUEFA欧州選手権 に2度ずつ出場した。
経歴
クラブ
初期の経歴
アゾレス諸島 のサンミゲル島 にあるポンタ・デルガダ に生まれ、諸島内のクラブで育った。その後ポルトガル本土のFCポルト の下部組織に短期間だけ在籍したが、ホームシックにかかってアゾレス諸島に戻っている。1994年にCUミカエレンセ (ポルトガル語版 ) と初のプロ契約を結び、1シーズンプレーした。1995年にはリーガ・デ・オンラ (2部)のGDエストリル・プライア に移籍し、30試合で19得点を挙げた。1996年にはスペイン・セグンダ・ディビシオン (2部)のUDサラマンカ に移籍し、1996-97シーズンは19得点してプリメーラ・ディビシオン (1部)昇格に貢献した。1997-98シーズンは自身初のトップリーグで15得点を挙げた。1998年夏にはデポルティーボ・ラ・コルーニャ に移籍し、2シーズンで92試合に出場して33得点した。1999-2000シーズンにはクラブ初のリーグ優勝を飾った。
FCジロンダン・ボルドー
2000年9月、フランス・リーグ・アン のFCジロンダン・ボルドー に移籍した。FCナント 戦 (5-0) でデビューし、その試合でハットトリックを達成した[2] [3] 。2000-01シーズンはチームトップとなる公式戦通算26得点を記録し[4] 、20得点を挙げたリーグ戦では得点ランキングの2位となった。2001年11月にはバロンドール の50人のリストにノミネートされたが、リーグ・アンからのノミネートはパウレタだけだった[5] 。2001-02シーズンは22得点を挙げてリーグ得点王に輝いた。公式戦通算では35得点を挙げ、2シーズン連続でチーム内得点王となっている[6] 。リーグ最優秀選手賞に選ばれ、さらに選手と監督の投票によるOscar of footballにも選ばれた[7] 。2001-02シーズンのクープ・ドゥ・ラ・リーグ 決勝では2得点を挙げ、クラブ初のリーグカップ優勝に導いた[8] [9] 。これらの活躍から、マンチェスター・シティFC のケヴィン・キーガン 監督が獲得に興味を示したが、FCジロンダン・ボルドーのジャン=ルイ・トリオー (英語版 ) 会長は初めは移籍話に興味がないとし、次に適正な金額のオファーが来た場合のみパウレタを売る可能性があるとした[10] 。2002-03シーズンはリーグ戦で23得点、公式戦通算で30得点を挙げ、リーグのベストイレブンと最優秀選手賞に選ばれた。FCジロンダン・ボルドーでは3シーズンでリーグ戦98試合に出場して65得点を挙げ、公式戦通算では130試合に出場して91得点を挙げた[11] 。これはクラブ歴代3位の得点数となった[12] 。
パリ・サンジェルマンFC
PSG時代(2007年)
2003年夏、パリ・サンジェルマンFC と3年契約を交わした[13] 。移籍金は1200万ユーロ。2003-04シーズンのクープ・ドゥ・フランスでは決勝のLBシャトールー 戦で両チーム唯一の得点を挙げ、クラブにとって6年ぶりのタイトル獲得に貢献した。リーグ戦では37試合に出場して18得点を挙げ、3連覇のオリンピック・リヨン に次ぐ2位でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。2006年4月2日、古巣FCジロンダン・ボルドー戦 (3-1) で移籍後初のハットトリックを達成した[14] 。2005-06シーズンには自身2度目、移籍してから初の得点王となり、2006年にはリーグ5連覇中のオリンピック・リヨンからの関心が報じられたが、パウレタはパリ・サンジェルマンFCに残留し、2005-06シーズンのクープ・ドゥ・フランスで2シーズンぶりの優勝を飾った。パリ・サンジェルマンFC移籍後99得点目はボレーシュートで決め、100点目はヘディングシュートで決めた[15] 。2006-07シーズンには3度目の得点王のタイトルを獲得した。2007-08シーズンはリーグ・ドゥ (2部)降格の危機に直面したが、最終節でRCランス を上回って16位でリーグ・アン残留を決めた。
2008年夏に35歳で現役引退を表明したが、結局ポルトガルのスーペル・リーガ でのプレー経験は全くなかった[16] 。引退後もパリ・サンジェルマンFCに残ってスカウトとなった[17] 。2009年5月後半、パルク・デ・プランス で行われた引退記念試合に臨み、彼の友人たちで構成されたチームと、パリ・サンジェルマンFCの現役選手・かつて所属した選手で構成されたチームの両方で前後半をプレーした。試合終盤には13歳の息子と交代し、代わって入った息子が2得点を挙げた[18] 。
引退後はPSGのスタッフに(2011年)
2010年、出身地のアゾレス諸島にあるアマチュアクラブ、GDサン・ロケ (Grupo Desportivo São Roque) に加入してプレーし、2011年6月に改めて現役引退を発表した。そしてパリ・サンジェルマンFCにて、スタッフの仕事を継続している。
代表
1991年にFIFAワールドユース選手権 を制したポルトガルのゴールデン・ジェネレーション(1972年生のルイス・フィーゴ やマヌエル・ルイ・コスタ ら)と同年代であるが、世代別ポルトガル代表に招集された経験はない。1997年8月、アルメニア 戦でポルトガル代表 デビューした。自国のトップリーグ経験なしにポルトガル代表デビューしたのはパウレタが初めてであった。アルメニア戦の18ヶ月後のオランダ 戦では初めて先発出場し、1999年3月26日、EURO2000予選 のアゼルバイジャン 戦 (7-0) で代表初得点を含む2得点を挙げたが、2000年のEURO2000 本大会では控え選手扱いであった。
2002 FIFAワールドカップ
2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 では8得点を挙げてエースストライカーとしてスタメンに定着しているが、特にグループ首位を争ったオランダ戦ではホーム・アウェーともに得点を挙げた。日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップ 本大会では優勝候補の一角として臨んだポルトガルの攻撃陣を牽引し、グループリーグ2戦目のポーランド 戦 (4-0) ではハットトリックを記録した[19] 。しかしグループリーグ初戦のアメリカ 戦 (2-3) 、グループリーグ最終戦の韓国 戦 (0-1) では得点できず、1勝2敗のグループ3位でグループリーグ敗退に終わった。
UEFA EURO 2004
2002年夏から2004年夏にかけての国際親善試合では得点を量産し、特に2002年11月20日のスコットランド 戦では1試合2得点、2003年11月19日のクウェート 戦では1試合4得点を記録したが、EURO2004予選 では無得点であった。地元開催のEURO2004 本大会では決勝に進出したが、全6試合に出場して無得点と沈黙し、チームも決勝でギリシャ に敗れて準優勝に終わった。
2006 FIFAワールドカップ
2005年10月12日、ポルト で行われた2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 のラトビア 戦 (3-0) では代表通算41得点目と42得点目を決め、当時エウゼビオ が保持していたポルトガル代表の歴代通算得点記録(41得点)を上回った[20] 。2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 では、グループ最下位(7位)のルクセンブルク から計4得点、グループ6位のリヒテンシュタイン から計2得点、グループ5位のラトビア から計3得点と、FIFAランク下位の国から固め取りし、ヨーロッパ予選の得点王となる11得点を挙げた。2006 FIFAワールドカップ 本大会前に行われたカーボベルデ との親善試合 (4-1) ではハットトリックを達成し、調子の良さを示した。
本大会グループリーグ初戦のアンゴラ 戦 (1-0) では決勝点を決めたが[21] 、2戦目のイラン 戦 (2-0) と3戦目のメキシコ 戦 (2-1) では得点できなかった。決勝トーナメント1回戦のオランダ 戦 (1-0) 、準々決勝のイングランド 戦(0-0、PK戦の末に勝利)、準決勝のフランス 戦 (0-1) 、3位決定戦のドイツ 戦 (1-3) でも無得点に終わった。3位決定戦後、フィーゴとともに代表引退を発表した。
人物
両腕を翼のように広げるゴールパフォーマンス を行うことから、アソリスの鳥人(The Birdman of the Açores)というニックネームを持つ[22] 。
2005年11月、FIFA が行っているSOS子供の村 の親善大使にポルトガル人として初めて就任した[23] 。
タイトル
クラブ
デポルティーボ・ラ・コルーニャ
FCジロンダン・ボルドー
パリ・サンジェルマンFC
個人
勲章
Medal of Merit, Order of the Immaculate Conception of Vila Viçosa (House of Braganza)[24]
個人成績
クラブ
クラブ
リーグ
シーズン
国内リーグ
国内カップ
国内リーグカップ
欧州カップ
通算
出場
得点
出場
得点
出場
得点
出場
得点
出場
得点
エストリル
リーガ・デ・オンラ
1995-96
30
19
-
-
通算
30
19
-
-
サラマンカ
セグンダ
1996-97
37
19
-
-
プリメーラ
1997-98
34
15
-
-
通算
64
34
-
-
デポルティーボ
プリメーラ
1998-99
28
10
3
1
-
-
31
11
1999-00
30
8
3
0
-
5
3
38
11
通算
58
18
6
1
-
5
3
69
22
ボルドー
リーグ・アン
2000-01
28
20
1
3
1
0
7
3
37
26
2001-02
33
22
2
4
4
4
6
5
45
35
2002-03
37
23
5
5
2
1
4
1
48
30
通算
98
65
8
12
7
5
17
9
130
91
パリSG
リーグ・アン
2003-04
37
18
6
5
0
0
-
43
23
2004-05
35
14
3
4
0
0
6
1
45
19
2005-06
36
21
6
5
2
2
-
44
28
2006-07
33
15
3
1
1
2
9
6
46
24
2007-08
27
8
2
1
5
6
-
34
15
通算
168
76
20
16
9
10
15
7
212
109
通算
418
212
16
15
37
19
411
222
代表
代表
年
親善試合
国際大会
通算
得点率
出場
得点
出場
得点
出場
得点
ポルトガル
1997
0
0
3
0
3
0
0
1998
1
0
0
0
1
0
0
1999
2
1
5
2
7
3
0.429
2000
5
1
4
1
9
2
0.222
2001
3
0
7
7
10
7
0.7
2002
8
4
3
3
11
7
0.636
2003
12
8
0
0
12
8
0.667
2004
4
3
10
6
14
9
0.643
2005
5
2
7
5
12
7
0.583
2006
3
3
6
1
9
4
0.444
通算
43
22
45
25
88
47
0.534
代表での得点
脚注
外部リンク
タイトル・受賞歴 1930年代 1940年代
1940-41 WWIIのため中断
1941-42 WWIIのため中断
1942-43 WWIIのため中断
1943-44 WWIIのため中断
1944-45 WWIIのため中断
1945-46 ビエル
1946-47 シニバルディ
1947-48 バラテ
1948-49 バラテ / フンパール
1949-50 グルメロン
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
MVP - 得点王 - GK賞 - 若手選手賞 - 監督賞