『ドン・ジョヴァンニ 』の騎士長に扮するヴーハープフェニッヒ
ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ (ドイツ語 :Hermann Wucherpfennig、1884年(明治17年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月29日)は、ドイツ の声楽家 (バス )、音楽教育者 。外国人教師として来日し、日本の声楽家を数多く育てた。ヴーハープフェニッヒと彼の妻は、ナチス 政権の間に亡命 生活をしなければならなかった避難民の音楽家であった。
経歴
ドイツテューリンゲン州 ミュールハウゼン に生まれる。当初は言語学 を専攻し、博士号 も取得している。主に、忘れられていたバロック音楽 の作曲家ヨハン・フリードリヒ・アグリコーラ に関して論文を発表している。同時にデッサウ のバス歌手ルドルフ・フォン・ミルデと、ベルリン のV.モラッティに師事した。
1905年(明治38年)デッサウ市立劇場(現:旧劇場)と契約し、歌手としての活動を開始した(1909年(明治42年)まで)。1908年(明治41年)および1909年(明治42年)には合唱団員として、1911年(明治44年)には合唱団員と『ニュルンベルクのマイスタージンガー 』の夜警として、夏のバイロイト祝祭劇場 に出演。1909年(明治42年)からニュルンベルク 州立劇場で3シーズン出演。1912年(明治45年/大正元年)にイルマ・ラーフェンと結婚。その後の4シーズンはデュッセルドルフ 歌劇場で、1916年(大正5年)からベルリンシャルロッテンブルク市立オペラ(現:ベルリン・ドイツ・オペラ )で6シーズンを過ごした。ヴーハープフェニッヒは、文化の中心である伝統的なオペラハウス でヴェルディ とワグナー の主要な役や、オッフェンバック 『ホフマン物語 』のクレスペルと、オイゲン・ダルベール 『低地(Tiefland )』のトマソを引き継いだだけでなく、コミックオペラにも出演した。例えば、今日は演奏されなくなったエイメ・マイラート の『隠者の鐘』などである。
1920年(大正9年)にはベルリン国立歌劇場 にゲスト出演し、1924年(大正13年)に南米の大規模なツアーを行い、ノルウェー とハンガリー でのゲスト公演にも出演した。1922年(大正11年)から1931年(昭和6年)まで、カールスルーエ 州立劇場の合唱団に所属し、妻と一緒にカールスルーエに声楽学校を開設していた。1932年(昭和7年)ヴーハープフェニッヒは東京音楽学校 声楽科 の教授に任命された。彼は日本でバス歌手として演奏も行った。マリア・トル(ヴーハープフェニッヒと同じく東京音楽学校の外国人教師。1932年(昭和7年) - 1938年(昭和13年)在籍[1] )とともに、ドイツのアリアの数々を紹介した。1934年(昭和9年)11月16日、東京のドイツ大使館 は、ヴーハープフェニッヒなどが「日本の音楽生活におけるドイツの影響力の強化」に貢献したと報告している[2] 。大使館の評価は、1943年に(昭和18年)ヴーハープフェニッヒの妻がいわゆる「完全なユダヤ人 [3] 」であると判明したときに一変した[4] 。ドイツ政府の介入により、ヴーハープフェニッヒは東京音楽学校教授を解任された[5] 。
ヴーハープフェニッヒは1946年(昭和21年)に東京音楽学校に戻り、1953年(昭和28年)まで日本に留まった。武蔵野音楽学校 でも教壇に立っている[6] 。日本でヴーハープフェニッヒに師事した主な門下生は、栗本正 [7] 、畑中良輔 、山田正次、朴殷用[8] (日本名:新井潔)[9] 、三宅春惠 、柴田睦陸 、伊藤武雄 、薗田誠一 、平原壽惠子 、川崎静子 、佐々木成子 [6] 、安西愛子 、藤山一郎 、桑原瑛子 、長門美保 など、日本の洋楽界を支えた錚々たる顔ぶれである。
彼の妻は1880年(明治13年)にグライヴィッツ (現・ポーランド 領グリヴィツェ )に生まれたオペラ およびコンサートソプラノ であった。イルマ・ラッポルトという名前(セファルディム 系ユダヤ人特有の姓であり、こちらが本名の可能性もある)も用い、1907/1908年(明治40/41年)シーズンにはトリーア 州立劇場に出演し、その後ニュルンベルク 州立劇場で3シーズン過ごした。いくつかのゲスト出演もある。東京でも声楽家の教師を務め、武蔵野音楽学校でも講師を務めていた。当時の教え子の1人に渡辺はま子 がいる。
1953年(昭和28年)年老いた夫婦はドイツに戻った。
ヘルマン・ヴーハープフェニッヒは1969年(昭和44年)8月29日バーデン=ヴュルテンベルク州 カールスルーエで死去。85歳没。
イルマ・ ヴーハープフェニッヒも夫の一年半後の1971年(昭和46年)にカールスルーエで死去。91歳没。
レパートリー
グローセス・ゼンガーレクシコン(Großes Sängerlexikon :ほとんどが Kutsch/Riemens による)からの引用。
初演
アルフレート・カイザー (オランダ語版 ) 『テオドール・ケルナー(Theodor Körner)』 1912年11月25日 デュッセルドルフ
イジドレ・デ・ララ (英語版 ) 『三つのマスク(Die drei Masken)』 1913年 デュッセルドルフ
ベルナルト・シュスター(Bernhard Schuster)『若い泉(Der Jungbrunnen)』 1920年 カールスルーエ
ジークフリート・ワーグナー (Siegfried Wagner)『平和の天使(Der Friedensengel)』 1926年3月4日 カールスルーエ
レパートリー
記念碑
バイロイト祝祭劇場近くの公園に、“Verstummte Stimmen ”(Silent Voice)という本(1933年~1945年のオペラからのユダヤ人追放について書かれた)からの文章が載せられた記念碑が建てられている。
論文
ヨハン・フリードリヒ・アグリコラ『彼の生涯と作品』ベルリン大学 1922年(非公開)
参考文献
Hannes Heer : Verstummte Stimmen , Die Vertreibung der “Juden“ aus der Oper 1933 bis 1945. Der Kampf um das Württembergische Landestheater Stuttgart. Eine Ausstellung. Metropole 2008, S. ?
Karl-Josef Kutsch , Leo Riemens : Großes Sängerlexikon . Vierte, erweiterte und aktualisierte Auflage. K. G. Saur, München 2003, Band 4, S. 5105
脚注
外部リンク