プロテスタント (英 : Protestant )は、宗教改革 運動を始めとして、カトリック教会 (または西方教会 )から分離し、特に広義の福音主義 を理念とするキリスト教 諸教派 を指す。日本ではカトリック教会(旧教[ 注釈 1] )に対し、「新教 」(しんきょう)ともいう。この諸教派はナザレのイエス をキリスト (救い主)として信じる宗教[ 1] [ 2] である。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる[ 2] 。「父なる神 」[ 3] と「その子キリスト」[ 4] と「聖霊 」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
ローマ・カトリック教会 や正教会 のような全世界的な単一組織は存在せず、聖書解釈の多様さを尊重することから数多の教派が存在し、ニカイア信条 のギリシャ語原文から逸脱しない諸教派が一般的に「プロテスタント諸派」と呼ばれる。主な教派として、ルーテル教会 、改革派教会 、聖公会 、バプテスト教会 、メソジスト教会 、セブンスデー・アドベンチスト教会 、ホーリネス教会 、ペンテコステ教会 などがある。
概要
プロテスタントという総称は、その担い手達がカトリック教会に抗議(羅 : prōtestārī 、プローテスターリー)したことに由来する[ 5] 。「プロテスタント」は該当する諸教派の総称であって、プロテスタント全体を統括するような教団連合組織は存在しない。中世における諸教派の形成時、国教 化されたカトリック教会は宗教の自由を認めなかったため、教皇 中心主義に抗議し内部分裂 したプロテスタント諸教派に対しても、異端 としての対応を取ることとなった。そのため、多くの教派は、カトリック教会の対応に対して抗争や戦争の手段を用いて、新たな体制 的教会を構築した。
また、新たな正統の基準を確立したプロテスタント諸教会は、その公的な信仰の基準に反するものを異端視した[ 6] [ 注釈 2] 。
教義 の中心である使徒信条は、母体となったカトリック教会とほぼ同じに設定されている。それに加えて独自の原則として三大原理[ 注釈 3] も設定されている。
異教や異端であるかどうかの判別の基準としては、聖書 全体を神よりの霊感 を受けて書かれた神の言葉として受け止めることを前提として、三位一体 の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰が確立していること、主イエスが旧約 のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている。
歴史
1517年 以降、マルティン・ルター らによりカトリック教会 の改革を求める宗教改革運動が起こされた。
1524年 、ドイツ農民の不満を背景に、急進派トマス・ミュンツァー 率いる武装農民が蜂起し、これに対してルター派の諸侯らが激しく衝突、多くの犠牲が生じたいわゆるドイツ農民戦争 が勃発した。1529年 にルター派の諸侯や都市が神聖ローマ帝国 皇帝カール5世 に対して宗教改革を求める「抗議書 (Protestatio, プロテスタティオ)」を送った。そのためこの派は「抗議者 (プロテスタント)」と呼ばれるようになった。
ルターらは洗礼 と聖餐 以外の教会の諸秘跡 を排し、聖書 に立ち返る福音主義 を唱え始め、また西方教会では、それまでほとんどラテン語 でのみ行われていた典礼 や聖書 をドイツ語 化するなど、著しい改革を行った。このため次第にルター派は北ドイツからドイツ 全体へ広まり、その信者は増加していった。ルターは信仰義認 という教理を提唱した者としてよく知られている。ルター派の特に信仰義認は、カトリック教会 のトリエント公会議 などにより排斥された。その結果として別個の教派を築くこととなった。
宗教抗争は政治権力抗争とも絡み、ドイツ地域の内乱状態は30年間続いた。内乱終結のアウクスブルクの和議 (1555年 )により、プロテスタントもカトリック教会と同様に信教の自由の地位を保証されることとなる。ルター派は北方に広まり、デンマーク ・スウェーデン ・ノルウェー で国教となった。
当時の欧州大陸 はスペイン領であったネーデルラント 17州 のアントワープ が経済・貿易の中心地となっていたが、1566年にはフランドル ( 現在のベネルクス 3国及びフランス 北部)でもプロテスタントの宗教改革 が始まり、ネーデルラントのスペイン・ハプスブルク家 からの独立を求める八十年戦争 及びこれに伴う三十年戦争 が戦われた[ 注釈 4] 。
スイス の宗教改革運動は、ドイツ改革とほぼ同時期に起こっていた。カトリック司祭のフルドリッヒ・ツヴィングリ は「聖書のみ」、「信仰のみ」という教理を展開し、彼の弟子たちから幼児洗礼 を否定し再洗礼を認めるアナバプテスト派 が生じ、後に改革派教会 からも排斥されることになる(ウェストミンスター教会会議 )。また、ツヴィングリは、聖餐論 においてルター派と対立することになる。
内乱状態の後を受けて、ジャン・カルヴァン が登場し、彼はツヴィングリを受け継いでスイスにおける宗教改革の指導者となる。カルヴァンは新しい教会の組織制度として長老制 を提唱した。大陸におけるカルヴァン派の教会が改革派教会 と呼ばれ、ジョン・ノックス のスコットランド を経由した英国系のカルヴァン派の教会が長老派教会 (その後アメリカへと進出)と呼ばれる。カルヴァンは二重予定説を提唱し、カルヴァン派で受け継がれ、カルヴァン主義 とも呼ばれる。予定説も、ルター派と同じくトリエント公会議で排斥の対象となる。カルヴァン派は、混乱から社会を救うため、宗教 と政治 、教会 と国家 を明確に機能区分することを提唱する。また一般市民の信仰生活に対して、世俗職業を天職 (神の召命 )とみなして励むこと、生活は質素で禁欲的であること等を説き、これが勃興期の資本主義 の精神と適合したといわれる。カルヴァン主義 は、西方のフランス ・オランダ ・イギリス ・アメリカ へ広がった。後に、オランダ改革派 から、このカルヴァン主義からの思想が非聖書的であると唱え、カルヴァン主義の予定説に反対し、ヤーコブス・アルミニウス とその後継者によってレモンストラント派(アルミニウス派 )が現れる。1610年 、改革派 はドルト会議にて、アルミニウス派を異端として排斥する。このアルミニウス派の思想は、後にメノナイト派 、ジェネラル・バプテスト派 (普遍救済主義 のバプテスト )、メソジスト のウェスレー派などに継承されることになる。なお現在、各教団の神学の基本思想としてカルヴァンかアルミニウスかの2極に分かれる傾向がある。
16世紀前半、北ヨーロッパでの宗教改革とほぼ同時期にイングランド王国 でも宗教改革が始まり、カトリックから分離・独立したイングランド国教会 が成立した。ただ、この改革は国王ヘンリー8世 の離婚問題に端を発する政治的なものであり、教会組織がローマ教皇を否定し、国王を首長と認めさせることに目的があった(国王至上法 )。このため、ルターやカルヴァンの系譜とは異なるが、カトリックの権威を否定した宗教改革としてイングランド国教会もプロテスタントと呼ばれる。この宗教改革はその後、エリザベス1世 に引き継がれ、プロテスタント教会として確立される。しかし、動機が政治的なものゆえに、国教会の教義や儀礼はほぼカトリックを踏襲したものになっており、特にカルヴァン派が否定した監督制 も残っていた。一方、隣国スコットランド王国 では元イングランド国教会の牧師で、大陸で改革派教会から学びを受けたジョン・ノックス によって宗教改革が主導され、カルヴァン主義に基づく長老制を敷いたスコットランド国教会 が確立された。
16世紀後半のエリザベス女王時代に、大陸の改革派教会と同じ水準の改革を求めて、イングランドに現れたのがピューリタン (清教徒)と総称される様々な改革派である。ピューリタンでまず力を持ったのが、大陸の改革派教会やスコットランド国教会を模範としてイングランド国教会を内部から改革しようとしたカルヴァン主義の長老派 である。それとは別に国教会と袂を分かち、独自の教会組織を作ろうとしたロバート・ブラウン に始まる分離派(ブラウン派)も現れる。分離派はピューリタンの中では少数派であったがアメリカ大陸に移民し、ニューイングランド の形成に影響力を持つ(ピルグリム・ファーザーズ )。チャールズ1世の時代に急進したのが会衆制 を望んだ独立派 (会衆派 )であり、彼らは分離派の流れを汲みつつも、イングランド内戦(清教徒革命)を経て、国政の実権を握り、国教会改革を試みた。これ以外にも教義の違いなどから、イングランドのプロテスタントは多様に分派し、現在にも残るものとしては、国教会系としては各聖公会やメソジスト派、分離派ではバプテスト派、また、ピューリタン以外にもクエーカー派などが誕生する。
17世紀は大航海時代の終盤であったが、オランダの商人 は1609年に北アメリカ を発見して植民地 を造営しはじめ、同年に江戸 とも交易を始めた。江戸においては政治的事情 により布教は行われずに蘭学 が広められることとなったが、英蘭戦争 も生じる中でイギリスやオランダ はアジア圏のゴア やマカオ 、香港 やバタヴィア や香料諸島 において、それまで支配的だったスペインやポルトガルなどカトリック の勢力を排するに至った。
18世紀 、英国のオックスフォード大学 内でジョン・ウェスレー 、ジョージ・ホウィットフィールド が指導するグループから始まった運動が、英国全土にメソジスト という名で広がるようになった。そして、この運動はアメリカに渡り第一次大覚醒 に至ったが、独立戦争が始まる際に一部英国に帰国することとなった。1784年 アメリカに残ったメソジスト宣教師らを監督教会として認める25箇条のメソジスト憲章が定められる。1845年 、米国のパティキュラー・バプテスト 派は、奴隷問題と国外伝道政策に関する見解の相違で北部バプテスト同盟 (現在の米国バプテスト同盟 )と南部バプテスト連盟 とに分裂する。この頃、米国メソジスト教会にも同様の分裂が起こるが、やがて分裂は終結する。19世紀 後期のアメリカのメソジスト系統からホーリネス派が起こり、これを基盤にペンテコステ派が起こる。さらにペンテコステ派によるペンテコステ運動は他教派におよび、聖霊派として知られている。また、カリスマ派 はペンテコステ派から起こるが、WCC に加盟したことにより、エキュメニズムに反対するペンテコステ派から排斥される。
同じく18世紀 、アメリカで再臨待望運動 が起こり、この運動に参加する信徒は再臨派(アドベンティスト派)と呼ばれた。
19世紀 に入り再臨運動がさらに活発化すると幾つもの再臨派系教派がここから分裂、組織化した。その中でもエレン・ホワイト らが活発に活動し、日曜ではなく、イエスが当時守っていた日が土曜日 であった事実と、旧約律法通りでもある土曜を礼拝日とするSDA(セブンスデー・アドベンチスト教会 )が出現した。この教会は、プロテスタントに分類されるとする見解とキリスト教系の新宗教 に分類される見解との両方が存在する[ 7] [ 8] [ 9] 。
フリードリヒ・シュライエルマッハー から始まる近代神学、自由主義神学 、聖書高等批評学 のプロテスタント教会への浸透に対抗して、英国の福音主義同盟 は1846年 、9カ条からなる福音主義信仰の基準を告白した。また20世紀初頭に英米においてキリスト教根本主義 運動が起こった。20世紀半ばの1948年 に自由主義プロテスタントとローマ・カトリックを中心としたエキュメニカル運動 の組織世界教会協議会 が成立したが、それに対して福音主義同盟 を創立会員として1951年 に世界福音同盟 が結成された。第二次大戦後に台頭した福音派 はエキュメニカル運動に対し、1974年 、ローザンヌ世界伝道会議 を開催し、ローザンヌ誓約 が発表された。また福音派は新福音主義 とも呼ばれ、福音伝道 と宗教改革の福音主義を強調する。福音派は個人の伝道活動の実践、ビリー・グラハム の大規模な伝道活動などにより教勢を拡大し、学的にもウェストミンスター神学校 、フラー神学大学 、ホィートン・カレッジ 、クリスチャニティ・トゥディ などにより大きな影響力を与えるようになった[ 10] [ 11] [ 12] 。
組織
諸教派一覧
信者数
2013年現在、世界に約23億人のキリスト教の信者がいてプロテスタント諸派の信者は約5億人[ 13] 。
イングルハート-ウェルゼル文化地図
イングルハート・ウェルゼル文化地図 でプロテスタントヨーロッパに分類される北欧諸国 (スウェーデン 、デンマーク 、フィンランド 、ノルウェー 、アイスランド )、オランダ 、ドイツ 、スイス は、歴史 、文化 、社会 の面で多くの共通点を持っている。個人の自由 、個人主義 、民主主義 、世俗的 で合理的 な社会秩序を重視することが特徴で、伝統、宗教、国家への忠誠心よりも明らかに上位に位置する近似的な民族集団と位置づけられているのである。エストニアもプロテスタントヨーロッパに分類されるが、イングルハート・ウェルゼル文化地図では、むしろカトリックヨーロッパの範疇に位置づけられる[ 14] [ 15] [ 16] [ 17] 。
信徒分布
キリスト教徒 が人口の過半数を占める国で、プロテスタントが他のキリスト教諸宗派より多い国は、ドイツ 、スウェーデン 、フィンランド 、ノルウェー 、デンマーク 、アイスランド 、エストニア 、イギリス 、ケニア 、ガーナ 、ナイジェリア 、リベリア 、シエラレオネ 、マラウイ 、コンゴ共和国 、ザンビア 、ジンバブエ 、ボツワナ 、ナミビア 、エスワティニ 、南アフリカ共和国 、オーストラリア 、ニュージーランド 、パプアニューギニア 、フィジー 、トンガ 、ソロモン諸島 、バヌアツ 、アメリカ合衆国 、ジャマイカ などとなっている。ただし、宗教改革発祥の地であるドイツ はカトリックとほぼ拮抗した状況となっている[ 18] 。中国 は人口に占めるキリスト教徒の割合は5%程度だが、絶対数で見れば多く、そのうちプロテスタントが8割以上を占める。キリスト教徒人口の割合が3割と、アジアの中では比較的高い韓国 は、うち6割以上がプロテスタントとなっている。日本のキリスト教徒は、半数近くの約90万人がプロテスタントとされている[ 18] 。
教義
多くの教派で共有できる基本信条 として、ニカイア信条 、ニカイア・コンスタンティノポリス信条 、カルケドン信条 、使徒信条 などがあげられる。
福音派とエキュメニカル派の相違
プロテスタントは福音派 とエキュメニカル派 に二分しているとされている[ 19] [ 20] [ 21] [ 22] [ 23] 。
福音派の聖書観は、十全霊感である。
エキュメニカル派のプロテスタントの聖書観は二つに大別される。
新正統主義は部分霊感である。
リベラル派は否定霊感である。
異端はいないとする教派
自由主義神学 に立つ教派・グループなど、リベラル派 においては、何かを異端 とみなすこと自身が不寛容であり、キリスト教に異端はいないとする思想もある。
プロテスタント諸派の異端規定
「異端」を定義する基準は、多くの教派で共有できる、ニカイア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条、使徒信条など基本信条からの逸脱である。
他教派との相違
「プロテスタント」は諸教派の総体であって、プロテスタント全体の代表者や指導者のような存在(カトリック教会 における教皇 や正教会 における総主教 )や、プロテスタント全体を統括するような教団連合組織はない[ 注釈 6] 。また、各教派の成立自体も初代統一プロテスタントからの分離・離脱から生じ、複数に別れたといったものではなく、最初期のプロテスタントであるアナバプテスト 、ルター派 、カルヴァン派 、ツヴィングリ派 などは互いの影響は受けつつも、それぞれ全く別個に成立したもので、最初から統一されたプロテスタントは存在しなかった。それ故、前出の聖公会 などをはじめ、「プロテスタントなのか、そうでないのか」が曖昧で線引きの難しい教派・教団が生まれる結果にもなっている。それぞれの成立については本項の系統の節を参照。
対して、カトリック教会はそれに属するすべての教会が中央であるローマ教皇庁 (バチカン )に結び付いている。正教会 は基本的には国や地域ごとに教団は複数に分かれているものの、同じ教義・奉神礼 を共有し、相互にフル・コミュニオン 関係を維持する連合体として存在しており、イスタンブール のコンスタンディヌーポリ総主教庁 を全地総主教庁と呼ぶなど、名誉的にではあるが全正教会の筆頭・総本山的扱いとしている[ 注釈 7] 。そういった意味では、カトリックや正教会と同じような意味・用法での「プロテスタント」という名の教派は存在しないのである。
「プロテスタント」の語は66巻の聖書 を共有するキリスト教について使われており、同じ正典を用いる人々の分派を教派(ディノミネーション)とし、違う正典[ 注釈 8] を用いる分派は宗派 [ 注釈 9] (セクト)として区別されることがある[ 24] 。
プロテスタントは同じ教派でも宗教法人 としての教団は更に分かれていることも多い。例えば、同じルーテル教会 としての教派と自己規定していても、「○○ルーテル教団」「△△ルーテル〜教会」「○○ルター派××教団」といった法人が分かれているケースもあり、さらに法人が別なだけでなく交流すらないケースもある。これは移民や宣教によって成立母体が異なる場合や、教義の解釈によって分裂が起こることに起因する。逆のパターンとしては日本基督教団 などのように、異なる教派同士が一つの超教派教団[ 注釈 10] に所属している場合もある。
また、ルーテル教会 には修道院 制度が僅かながら存在するが、他のプロテスタント諸派には修道院制度が存在しないなど、プロテスタント諸派の間には小さくない差異がある。
活動
20世紀 に起こった、プロテスタントを中心とするキリスト教の教会一致運動のこと。
国教会と自由教会
Cuius regio, eius religio(領主の信仰が、汝の信仰)の原理は、欧州の外では通用せず、アジア地域などにおいて敬虔主義 が伝道の原動力になった[ 25] 。国教会 から独立した教会は自由教会 (フリーチャーチ)と呼ばれている[ 26] [ 27] [ 28] 。
合同教会
複数のプロテスタント教派が共同で合同教会 を作る動きが特に20世紀 になって盛んになっている。 [ 29] [ 30] カナダ合同教会 、 北インド教会 (Church of North India )、南インド教会 (Church of South India )、中国基督教協会 などである。
系統
プロテスタントは主にカトリック教会から分離した教派、さらにそこから分離した教派を指す。正教会 をはじめとした東方教会 から分離した教派を指すことはない(古儀式派 などはプロテスタントとは呼ばれない)。
聖公会 (英国国教会 )は、カトリック教会から分かれてプロテスタントの教義から影響を受ける一方で、カトリック教会の信条・聖職制度・典礼 等を引き継いでいるという経緯がある。そのため、聖公会をプロテスタントに分類 する見解もあり、聖公会も自身を「宗教改革の結果生まれた教会としては、プロテスタントに属している」と規定している。一方で、カトリックの伝統も受け継いでいることから「中道の教会」「橋渡しの教会」とも位置づけている[ 31] 。英国王室 では、王位継承者でプロテスタント信仰を持っている者、正教の信仰を持っている者は王位継承後、スコットランド国教会 にも帰属しなければならないとしており、この場合聖公会はプロテスタントに含まれると考えられる。
カトリックから分離した教派であっても、上述のようにプロテスタントと自認している聖公会をそのように呼ぶか否かは、各教団・信徒個人で意見が分かれる。また同じくカトリックから分離した教派である復古カトリック教会 は、プロテスタントを自認する聖公会とはフル・コミュニオン の関係にありながら、カトリックを自称しておりプロテスタントには含まれないとされる。このように、プロテスタントなのかそれ以外なのか線引きの難しい教派や教団も見られる。
非常に稀な例ではあるが、プロテスタントの流れでありながら正教会の奉神礼を採用しているエヴァンジェリカル・オーソドックス教会 という教派も存在する。これは元々福音派系プロテスタントであった教派が結果的に正教会の奉神礼を採用したのであり、源流は正教会ではなくカトリック分離組の流れ(福音派 経由)のプロテスタントである。なお、この教派の多くの教会は最終的にどこかしらの地域の正教会に合流しており、独自のプロテスタント教派としては現在では数を減らしている。
系統概略図
キリスト教諸教派 全体からみた系統概略。更に細かい分類方法と経緯がある。
聖公会 、プロテスタント、アナバプテスト について上図より詳しい系統図であるが、これもあくまで大まかな流れであり、さらに細かい分類方法・経緯がある。
社会学における見解
プロテスタンティズムと近代社会
社会学などで研究、議論の対象となるヨーロッパの近代化は、特にその初期において、プロテスタント革命によって強力な後押しを得たものだとする見解がある。
その最も有名な説はマックス・ヴェーバー による『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 』に展開されたもので、清教徒 など禁欲主義的なピューリタニズムが支配的な国家において、労働者 が合理的に効率性 、生産性 向上 を追求する傾向を持っていたことが指摘されている。ヴェーバーによれば、プロテスタントの教義上、すなわち自らに与えられた職業を天職 と捉えるルターの思想と、それに加えてカルヴァンによる予定の教理(二重予定説)によって、貧困は神による永遠の滅びの予兆 である反面、現世 における成功は神の加護の証であるとされたことから、プロテスタント信者、特に禁欲的ピューリタニストは、自分が滅びに定められたかも知れないという怖れから逃れるために、自らの仕事に一心不乱に(ヴェーバーはここで「痙攣しながら」というドイツ語を用いている[ 32] )打ち込むことで、自分が神に救われる者のひとりである証 を確認 しようとしたという心理 があるという。なお、社会心理学者のエーリヒ・フロム も、『自由からの逃走』の第3章「宗教改革時代の自由」において、ウェーバーの説を援用しながら、そのような心理が権威主義的なものであることを分析し、ファシズムと同様の権威主義的な要素が古プロテスタンティズムに既に内包されていたとする見解を示している。
また、ダニエル・ベル は『資本主義 の文化 矛盾』で、このような合理主義 の精神が、芸術におけるモダニズムの運動と共に、近代社会 のあり方を規定 した主要因であったとする。また、1960年 代以降、消費 社会と結びついたモダニズムの影響 力が拡大し、プロテスタンティズムに由来する近代の合理主義 を脅かしているとも診断する。このような合理主義のため、経済平和研究所 のデータを使って客観的に算出した積極的平和指数 では、バルト三国のエストニアを除き、イングルハート・ウェルツェル文化地図 でプロテスタントヨーロッパに分類される国:北欧諸国 (スウェーデン 、デンマーク 、フィンランド 、ノルウェー 、アイスランド )、スイス 、オランダ 、ドイツ 、そして限りなくプロテスタントヨーロッパに近いオーストラリア、ニュージーランドは日本とともに上位13カ国に入っていることが分かる[ 14] [ 33] 。
プロテスタントと近代の関わりについてはもうひとつ、異なる側面を扱った説があり、やはり広く知られている。教会に赴いて他の教徒と一緒に説教を聞いたり、賛美歌 を歌うことによって信仰を実践していたカトリックに対して、プロテスタントは当初、個々人が聖書を読むことを重視した。集団で行う儀式に比べて読書は個人中心の行動であるため、一部の論者はこれを近代社会に特有な個人主義 と結び付けて考える[ 34] 。
プロテスタントが影響したとされる出来事
1525年ドイツ農民戦争では、ルターの勧告に従った諸侯たちが農民を鎮圧し、10万人の農民が殺された。この詳細についてはドイツ農民戦争 を参照。
1562年ユグノー戦争は、フランスのカトリックとプロテスタントが40年近くにわたり戦った内戦である。この詳細についてはユグノー戦争 を参照。
ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植。この詳細についてはイギリスによるアメリカ大陸の植民地化 、および、フランスによるアメリカ大陸の植民地化 を参照。
八十年戦争におけるプロテスタントの反乱。この詳細については八十年戦争 を参照。
ドイツ三十年戦争。ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発した。この詳細については三十年戦争 を参照。
インディアン戦争。アメリカ合衆国における白人入植者によるインディアンの征服戦争の総称。この詳細についてはインディアン戦争 を参照。
フィリップ王戦争。1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きた戦争[ 注釈 11] 。この詳細についてはフィリップ王戦争 を参照。
太平天国の乱。1851年から1864年まで。科挙 に3度失敗した洪秀全 が清朝 打倒を掲げて戦った反乱。この詳細については太平天国の乱 を参照。
プロテスタントで著名な人物
脚注
注釈
^ ただしカトリック教会自身は「旧教」を自称したことはなく、カトリック教会ではまったく使われない呼称である。
^ こうした分派発足のいきさつがあるため、ナザレのイエスの説いた普遍的な教条の表明と、抗争や戦争の指針とを共存しうる教派も生まれた。
^ 神の前で義とされるのは行為 や祭礼 ではなく「信仰 のみ」、聖書は神の言葉であり、信仰生活は聖書の啓示をよりどころとする「聖書のみ」、洗礼を受けた信者はすべて祭司であるとする「万人祭司」がある。(岩波キリスト教辞典P994 プロテスタンティズムの項目 川中子義勝)
^ のち、1648年のヴェストファーレン条約 及びこれに伴うミュンスター条約 (英語版 ) により、南ネーデルラント 以外の北部7州はネーデルラント連邦共和国 として成立し、またスイス も独立した。
^ 「ルーテル」はルターの舞台ドイツ語 読み
^ 各教派、教団ごとの代表者、代表理事などの経営・運営上のトップは殆どの場合存在する
^ ローマ教皇庁のような、全教会政治の最高権限を有しているわけではない。
^ この場合の違いは、旧約聖書 に関して、カトリック側が七十人訳聖書 に準拠したラテン語 訳聖書に依るのに対して、プロテスタント側がユダヤ戦争 後に正典化されたヘブライ語聖書 を底本とするだけの違いで、前者に含まれる一部の文書が正典化されたヘブライ語聖書から外された第二正典 を旧約聖書に含むか含まないかの違いである。
^ ただし、日本語 の宗派 の語は元来仏教用語であって、キリスト教系で使用する機会は滅多にない。
^ 日本基督教団 は日本の政治的事情により結成された超教派ではあるが、戦後の再編で福音派 とされる系統の教会は所属していないメインライン・プロテスタント の教団であると認識されている。
^ これ以降ピューリタンと先住民は全面的に対立するようになる。岩波キリスト教辞典P1035
脚注
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参考文献
関連項目