この項目では、ロンドンにある広場について説明しています。
ピカデリー・サーカス (Piccadilly Circus ) は、ロンドン のシティ・オブ・ウェストミンスター (ウェストミンスター区)、ウエスト・エンド にある広場 の名称である(「サーカス」は「通りの合流点における円形の空き地」の意味)。
商店の立ち並ぶ大通りであるピカデリー とリージェント・ストリート の接続地点として1819年 に建設され、現在ではシャフツベリー・アベニュー 、ヘイマーケット 、コヴェントリー・ストリート およびグラスハウス・ストリートもこの地点で合流している。ウエスト・エンド地区の中心に位置し、主な小売店 や劇場 を始めとするエンターテインメント施設が密集している。このため、観光客や買い物客、そしてバス やタクシー 、自動車 が集まり、広場近辺は常に混雑している。
ピカデリーサーカスは広場北側ビルの大きな街頭ディスプレイおよびネオンサイン が有名であり、「エロス」の名で知られている噴水 もまた有名である(後述)。広場の周りにはロンドン・パビリオンやクライテリオン・シアター といった歴史的な建造物も多い。広場の直下はロンドン地下鉄 ピカデリー・サーカス駅 になっている。
歴史
1896年当時のピカデリーサーカス
ピカデリーサーカスに合流する大通りにピカデリーの名が最初に登場したのは1626年 のことである。著名な洋服店を経営するロバート・ベーカーの所有する建物の名前が「ピカデリーホール(Pickadilly Hall )」と名づけられたことがその最初であり、「様々な種類の襟」を意味する"piccadills "ないしは"piccadillies "を販売していたことに由来する。当時この通りはポルトガル・ストリートと呼ばれており、これはチャールズ2世 の王妃 キャサリン・オブ・ブラガンザ がポルトガル 王室出身であることを記念して付けられていた。1743年 頃には通りの名前はピカデリーと呼ばれるようになっており、1819年 にはピカデリーサーカスがリージェント・ストリートとの合流点として、ジョン・ナッシュの設計により、ハットン夫人所有の土地に建設された。元々は円形であったが、1886年 にシャフツベリー・アベニューが建設されたことにより現在は円形ではない。
ピカデリーサーカスは建設以来交通の混雑する地点であり、というのも劇場密集地帯の真ん中に位置し、かつ商店の立ち並ぶピカデリーの出口に当たる場所だったためである。当時の混雑の様子をチャールズ・ディケンズ の息子チャールズ・C・B・ディケンズは次のように描いている。「巨大な人の流れがヘイマーケットやリージェント・ストリートから西方のハイド・パーク・コーナー まで連なり("the great thoroughfare leading from the Haymarket and Regent-street westward to Hyde Park-corner" )」、「ロンドンが誇ることのできる、パリ の大通りに劣らない大通りである("the nearest approach to the Parisian boulevard of which London can boast" )」。
ロンドン地下鉄のピカデリー・サーカス駅は1906年 3月10日 に、ベーカールー線 の駅として開業し、12月にはピカデリー線 が開業した。1928年 には駅利用者の増加により大規模な改修が行われた。
1908年 からは広告のネオンサインが設置された[1] 。また、1926年 8月3日 には最初の信号機 も設置されている。
1960年代 初頭、急増する交通量に対応するため、広場は大規模な再開発 を迫られていた。1962年 、ウィリアム・ホルフォード 卿が地上交通の上に歩行者専用の大通りを建設するという、「二階建ての」ピカデリーサーカス建設案を提示した。この案は60年代を通じて存在したが、結局1972年 にキース・ジョセフ卿とアーネスト・マープルズによって廃案にされた。というのも、ホルフォード卿の計画では20%程度の交通量増加にしか対応できず、政府が求める50%の交通量増加への対応を満足していなかったからである。
ホルフォード案を参考に、1967年 には映画会社Rank Organisation によって短編ドキュメンタリー 映画 『さよなら、ピカデリー("Goodbye, Piccadilly" )』が制作された。しかしながら、南部分が1980年代 に大規模な車両乗り入れ禁止化されたことを除けば、ピカデリーサーカスは再開発されていない。
周辺地区
ピカデリーサーカスの周りには「エロス」の噴水、ロンドン・パビリオン、クライテリオン・シアターを始めとして、劇場や商店が密集しており、ロンドン 市内でもひときわ人の集まる場所である。日本 に馴染み深いものとして、ジャパン・センター がピカデリーサーカスのそばにある。また、過去にはロンドン三越 (1979年~2013年)が営業していた。
ピカデリーサーカス南側から見るパノラマ (2015年)
ネオンサインと街頭ディスプレイ
2012年現在のネオンサイン (昼)
2012年現在のネオンサイン (夜)
ピカデリーサーカス一帯は1900年代 初頭から、人の流れが多い他の場所に違わず、数多くのネオンサインがビルの外壁に掲示されていたが、現在ピカデリーサーカスで広告が掲示されているビルは、シャフツベリー・アベニューとグラスロード・ストリートに挟まれた北西の一帯のみである。この北西部分に特別な愛称等は付けられていない(以前モニコ(Monico )という喫茶店 がこのビルに入っていたためそう呼ぶ人もいる)。なお、このビルは1970年代 からランド・セキュリティ・グループという不動産 投資会社が所有している。
ピカデリーサーカスに最初の広告のネオンサインが登場したのは1908年 でペリエ が出した広告である[1] 。
初期の広告には白熱電球 が用いられていたが、ネオン管 を用いたものへとかわり、一時期にはギネス 社による巨大な時計 を模したユニークな広告も登場した。短期間だがコカ・コーラ 社がプロジェクタ を用いた広告を流していたこともあり、しかし2000年代 に入りロンドンオリンピック を控え順次LED 表示へと変更された。なお、この地区に掲示される広告の数は、広告料が年を追って上昇することにより、減少傾向にある。
第二次世界大戦の影響で1939年 から1949年 までの間は電光掲示板は消灯されていた[1] 。電光掲示板は環境保護キャンペーンなどで消灯されることもあるほか、ウィンストン・チャーチル やダイアナ妃 の葬儀の際にも消灯された[1] 。
ピカデリーサーカス南側から見るパノラマ (2007年)
2005年 現在、この北西部分にはピカデリーサーカスに面して、ブーツ 、バーガーキング 、GAP が店舗を構えており、他の通りに面した部分はレストランやオフィスとなっている。2003年 11月 、それまではネスレ が広告を掲示していた場所にコカ・コーラがLEDを用いた広告を掲示した。このコカ・コーラ社の広告の下にはTDK 、ヒュンダイ の広告があり、隣にはマクドナルド 社の広告がある。コカ・コーラ社の隣にはサムスン の広告があり、2005年にネオン管からLEDの広告へと変更された。現在ヒュンダイが設置している位置には1978年から三洋電機 がネオンサインを設置していたが、パナソニック (同社も現在のサムスンの位置に広告を掲出していた)との合併によるブランド消滅やLED広告への改修費の負担ができなかったため2011年に撤退している。2015年にはTDKも広告を取り下げたため、ピカデリーサーカスから日本企業の広告が姿を消すこととなった[2] 。
ボーダフォン 社もまたピカデリーサーカスに面したコヴェントリー・ハウスの屋上部分に広告を掲示している。この広告では、ウェブサイトから日時を指定してメッセージを表示するサービスが行われている。
従来は6枚のスクリーンを組み合わせた電光掲示板であったが、2017年の改修により耐久性の高い1枚のスクリーンに変更され企業広告のほかにニュースや天気予報なども表示されることとなった[1] 。
シャフツベリー伯記念噴水と「エロス」
広場中央の噴水とエロス 像
広場の中央にある噴水は第7代シャフツベリー伯 の活動を記念して建造されたもので、「キリスト教的慈愛を表す天使(The Angel of Christian Charity )」と呼ぶ人もいる。なお、1980年代 の改修工事により、当初はシャフツベリー・アベニューの起点である交差点中央から交差点南側の歩道部分に移設されている。
この噴水は1892年 から93年に建造されたものである。設計者はアルフレッド・ギルバート であり、噴水の頂点には翼を広げた「キリスト教的慈愛を表す天使」の像が備え付けられている。なお、この像はギリシャ神話 の愛の神である「エロス」と呼ばれることが多いが、ギルバートはエロス の双子の弟であるアンテロス を意識してこの像を設計している。「エロス」は1つのロンドンの象徴として認識されているため、イブニング・スタンダード 紙は奥付 欄にこの像のイラストを採用している。
デザインが裸であるため、建造時には公共空間にそのような像は相応しいかどうか、という議論も起こったが、現在では市民に広く受け入れられている。「エロス」についてアート誌は次のように述べている。「…私たちの街の通りに多い、退屈で醜い彫刻とは真に対照的な作品であり、…(中略)…これまでの侘しかった公共空間を美しく彩る作品である一方、市民の嗜好をより素晴らしい方向へと導く作品でもあり、加えてかつてのような途方もなく奇怪な作品がこれ以上この街に創造されることから解き放つ作品でもあろう。」
素材はアルミニウム であり、アルミニウムで製作された像はこれが世界で最初のものである。以前はシャフツベリー・アベニューの方向、すなわち交差点真ん中から北方向を指し示していたのだが、第二次世界大戦 中は、この噴水の上部に取り付けられている「キリスト教的慈愛を表す天使」は取り外され、広告が備え付けられていたが、1948年 に元に戻されている。
この「エロス」が本来は双子の弟、アンテロスを意識して制作されたという事実は、ウェストミンスター区の記録に残っている。アルフレッド・ギルバートはこの像の制作依頼が舞い込んだ時、既にアンテロスを模した像を制作し終えており、第7代シャフツベリー伯の慈善活動への姿勢がまさに「私心のない愛の天使」そのものだと感じたため、同様のモチーフで再度像を制作しようと試みた。ギルバートはアンテロスを通して、「エロスもしくは天使のような、軽薄な暴君とは正反対の、思慮深く成熟した愛」を描こうと考えていた。この像のモデルとなったのは16歳のイタリア 人アンジェロ・コラロッシ (英語版 ) である[3] 。この像が設置された時、像はドーセット州 にある伯爵の大邸宅、ウィムボーン・セント・ジャイルズ の方向を指し示していた。
この像が公開された時、市民からは多くの苦情が寄せられた。あるものは劇場街であるこの街にふさわしくない下品なものであると非難し、またあるものは非常に穏当で尊敬されている伯爵に敬意を表するための作品としては生々しすぎるのではないか、と非難した。異論の一部は、この像の名を「キリスト教的慈愛を表す天使」と改めること、つまりギリシャ神話におけるアンテロスの役割をキリスト教 の神々の行為として(虚構ではあるが)紹介することで幾分和らげることができた。しかしこの名前が広く知れ渡ることはなく、再び官能的な愛を表す「エロス」の名前で呼ばれることとなった。
この像は人びとから人間の貪欲さを表現した像であると見なされるまでになり、半裸の「エロス」の指し示す方向は絶対的な堕落の象徴、すなわち近隣地区の歓楽街 として発展したソーホー の方角であるシャフツベリー・アベニューへと向けられた。ギルバートは生前この像について次のように述べている。「この噴水には3000ポンド以上の銅 が費やされている。取り壊して再びペニー 銅貨 へと鋳造しなおせばいい。そして、この世界で最も巨大な都市の永遠の恥であり不名誉でもある、テムズ河岸通りで夜な夜な死体として発見される不運な人たちに分け与えればいいではないか。」
クライテリオン・シアター
主要記事:クライテリオン・シアター
クライテリオン・シアターは、イングリッシュ・ヘリテッジ により指定建造物(Listed building )第二級に認定されている、ピカデリーサーカス南側にある劇場である。地上に位置するチケット販売ブースを除き、およそ600を数える客席は地下に位置し、階段が下方向へと延びている。柱 が二階席(dress circle )と三階席(upper circle )を支える形で存在するため、柱により視界が制限される座席も多い。
クライテリオン・シアターの設計者はトーマス・ベリティ であり、元はコンサートホール としての使用を計画されていたが、1874年 3月21日 に劇場としてオープンした。1883年 には、換気を改善するために一旦閉鎖され、それまで用いられていたガス灯 を電灯へと交換する工事を行い、翌年営業を再開。1989年 に再度閉鎖され、大幅に改修工事を行い、1992年 10月 に再オープンした。
ロンドン・パビリオン
ロンドン・パビリオン
ピカデリーサーカスの北東角、シャフツベリー・アベニューとコヴェントリー・ストリートに挟まれた部分にある建物がロンドン・パビリオンである。1859年 、ミュージックホール として最初のロンドン・パビリオンが建設された。1885年 、シャフツベリー・アベニューの建設に際し、この建物の敷地を通りが貫くこととなり、現在の位置に建て直された。1923年 には電光掲示板が建物の外壁に取り付けられている。
1934年 に大規模な改修工事を行い、ロンドン・パビリオンは映画館 へと生まれ変わる。1986年 には、外装を1885年当時の状態で保存したまま内部を建て直し、ショッピングセンター となった。2000年 には隣接するトロカデロ(Trocadero )に通路が接続され、2003年 には外壁の表示も「ロンドン・トロカデロ(London Trocadero )」へと変更された。現在はビルの地下部分はピカデリー・サーカス駅と直結している。
周辺の商業店舗
ウエスト・エンドの中心地であるため、近隣には小売店が非常に多い。リージェント・ストリートとピカデリーに挟まれたピカデリーサーカス西側には、以前はタワーレコード の店舗があり、現在は買収によりヴァージンメガストア が営業を行っている。なお、この店舗の地下部分はピカデリー・サーカス駅と直結している。また、同業種のHMV がロンドン・トロカデロに店舗を構えている。イギリス 国内に幅広く店舗を展開するスポーツショップ、リリーホワイト(Lillywhites )も1925年 以来、ピカデリーサーカス南側で営業を行っている。
ピカデリーサーカス周辺には日本に関連した小売店もいくつかある。「ロンドン三越」が南約150mの位置に、「ジャパン・センター」が西約50mの位置に、その他「らいすわいん」、「ありがとう」といった日本食 や日本の書籍 を販売する店舗が存在する。
また、ピカデリーサーカス北東約300mの位置にはヨーロッパ 最大規模[4] の中華街 がある[5] 。
現代文化におけるピカデリーサーカス
イギリスには、「まるでピカデリーサーカスのようだ」という句がある。これは人びとがとても忙しそうに動いている場所や状況を指して用いられる。また、ピカデリーサーカスに長時間いる人は、顔見知りの人とばったり出くわしてしまい、遂には知っている人全員と出会ってしまう、という意味でも用いられる。アメリカ では、同じような表現の句として、「まるでグランド・セントラル駅 のようだ」という言葉がある。これらの言葉に由来するかどうかは定かではないが、第二次世界大戦の際、D-デイ における連合国 艦隊 の英仏海峡 での集合地点を表す暗号として、「ピカデリーサーカス」が用いられた。
ピカデリーサーカスは芸術家 にとって刺激的な場所でもあるようで、モチーフとして用いられることもしばしばある。イギリス人の画家 チャールズ・ジンナー (Charles Ginner )は1912年 に『ピカデリーサーカス』という名前の絵画を発表しており、この絵は現在テート・ブリテン に所蔵されている。写真家 のポール・マッカーシー (Paul McCarthy )は2冊におよぶ320ページの写真集 、『ピカデリーサーカス』を発表している。
音楽 でもピカデリーサーカスの名を冠した楽曲が複数ある。スウェーデン の歌手ペニッラ・ヴァールグレーン (Pernilla Wahlgren )の1985年 のヒット曲や、北アイルランド のパンク・ロック バンド スティフ・リトル・フィンガーズ (Stiff Little Fingers )も、1981年 のアルバム『ゴー・フォー・イット(Go for It )』で、「ピカデリーサーカス」という楽曲を発表している。なお、この楽曲は北アイルランド問題 に関連して、ロンドンへ移住した彼らの友人の実話を基にして制作されている。また、1996年 にはイギリスのバンド、スクイーズ (Squeeze )がピカデリーサーカスの写真をジャケットに使用したコンピレーションアルバム 『ピカデリー・コレクション(Piccadilly Collection )』を発表している。日本 でも、松任谷由実 が2009年のアルバム『そしてもう一度夢見るだろう 』において、その1曲目で事実上のタイトルチューン として「ピカデリー・サーカス」という楽曲を発表している。また、杉真理 、松尾清憲 、上田雅利 、伊豆田洋之 、風祭東 、橋本哲というBOXとオールウェイズ のメンバーにより結成されたバンドにPicadilly Circusの名前がつけられている。
イギリス出身のミュージシャン の楽曲には、ピカデリーサーカスについて歌ったものが多い。ダイアー・ストレイツ の"Wild West End "(『Dire Straits 』(1978年 )に収録)はピカデリー近辺の街を歌った曲であり[6] 、モリッシー の"Piccadilly Palare "(『Bona Drug 』(1990年 )に収録)もピカデリー界隈の男娼 の人生について歌った曲である。なお、"Palare"とは"Polari"とも綴られ、イギリスのゲイコミュニティ において「話す」や「会話」などを意味する隠語 の一つである。ジェスロ・タル の"Mother Goose "(『Aqualung 』(1971年 )に収録)にもピカデリーサーカスについて歌った歌詞があり、ザ・サンデーズ (The Sundays )の"Hideous Towns "(『Reading, Writing, and Arithmetic 』(1990年)に収録)もピカデリーサーカスを歌った楽曲である。
イギリス以外のミュージシャンの楽曲では、ジャマイカ 出身のミュージシャンボブ・マーリー が1973年 に発表したアルバム『キャッチ・ア・ファイア 』に収録されている曲、"Kinky Reggae "がある。
文学 では、アンソニー・ホロヴィッツ (Anthony Horowitz )のスパイ 小説 『ストームブレイカー (Stormbreaker )』にロンドンのランドマーク が多数登場し、その中の一つとしてピカデリーサーカスが登場する。日本では、萩尾望都 の漫画作品『ポーの一族 』(1972年 -1976年 )の一篇に、ピカデリーサーカス周辺を舞台とした「ピカデリー7時 」(1975年 )がある。
ゲーム では、コナミ が1976年に同名のゲーム機(ピカデリーサーカス_(ゲーム) )を製造し稼働させている。
関連項目
脚注
^ a b c d e 英ピカデリーサーカス電光掲示板、改装工事で消灯 第2次大戦以来 AFP 2017年01月17日
^ “ピカデリーサーカスの広告、最後の日本企業も姿消す” (英語). Wall Street Journal . (2015年3月25日). ISSN 0099-9660 . https://realtime.wsj.com/japan/2015/03/25/%e3%83%94%e3%82%ab%e3%83%87%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%81%ae%e5%ba%83%e5%91%8a%e3%80%81%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%bc%81%e6%a5%ad%e3%82%82%e5%a7%bf/ 2021年7月13日 閲覧。
^ See 'The Man who was Eros', by Martin Chisholm, Picture Post, 28 June 1947.
^ 規模については英語版記事 Chinatowns in EuropeのEnglandの項 より確認。
^ 日本関連の店舗および中華街の距離については、ダイヤモンド・ビッグ社、pp.25-26より計測。
^ 英語版記事 Piccadilly Circusに発表年に関する記述が無かったため、英語版記事 Dire Straits (album) より確認。
参考文献