紀元前6世紀の終わりにアフリカの西海岸を旅していたカルタゴの探検家ハノンが島に到着した可能性があるとも言われているが、大航海時代に入り、インド航路を探検する途中、1472年にポルトガル人フェルナン・ド・ポー(Fernão do Po)によって発見され、最初は「フロル・フォルモサ」と名前を付けたが、発見者に敬意からフェルナンド・ポー島と命名された。ポルトガル人到着以前は約千年前からカメルーンの海岸から島にやって来たとされるブビ族が定住しており、島は「エトゥラ」と呼ばれていた。ポルトガル人はフェルナンド・ポー島に砦を築き、領有した。1641年にオランダの貿易会社がポルトガルの同意なしにフェルナンド・ポー島に交易所を設立したが、1648年にポルトガル人は島に戻って、オランダの貿易会社に取って代わり奴隷などの貿易を始めた。島のブビ族は16世紀から17世紀を通してモランボ王(王位:約1700年-約1760年頃)の元でブビ族の王国が構成された。1778年、ブラジル南部リオ・グランデ・ド・スルでスペインとポルトガルの紛争が発生し、ブラジルの権利をスペイン人から譲り受けることと引き換えにアフリカ本土海岸の一部(リオムニ)の権利とフェルナンド・ポー島の領有権をスペインに譲渡し、スペイン領ギニアとなった(エル・プラード条約)。赤道ギニアの国土がフェルナンド・ポー島(ビオコ島)を含む五つの島とリオムニに分かれているのはこのためである。
第二次世界大戦後の1959年にスペイン領ギニアはフェルナンド・ポー島(ビオコ島)のフェルナンド・ポー県、大陸のリオムニはリオムニ県と2つのスペインのアフリカの海外県にさらに分割されフェルナンド・ポー県はスペインの53番の県となった。このとき現地住民はスペインの市民権を獲得した。1960年9月1日にフェルナンド・ポー島の首都サンタ・イサベルにてフェルナンド・ポー県の議会が発足し、議会選挙でフェルナンド・ポー県の最初の知事及び議会議長にアルジーナ・デ・ボチ(Alzina de Bochi)が就任。1963年にさらにスペイン政府はギニア湾のスペイン海外県の経済行政の自治権を与えることを決議し、自治政府が樹立された。1964年にリオムニ県と共に赤道ギニア自治区として再統一しながら、フェルナンド・ポー県とリオムニ県は別々の自治権が与えられた。1966年、赤道ギニアの憲法会議がスペインの閣僚評議会によって合意され将来の独立が決まった。フェルナンド・ポー県議会議長でもあるブビ族のエンリケ・ゴリ・モルベラが赤道ギニアの独立と1968年の憲法に備えて、1967年から1968年にマドリード憲法会議に総会の副大統領として参加し、ブビ族とファン族が統一した独立に反対を示した。1968年10月12日のフェルナンド・ポー県とリオムニ県の2つのスペイン自治県からなる赤道ギニア自治区は赤道ギニア共和国として独立した。独立後、島は現在の北ビオコ県と南ビオコ県にあたる2つの地区に分割した。赤道ギニア共和国として独立したものの、フェルナンド・ポー島(ビオコ島)とリオムニは民族、言語も異なり、距離も離れているため、対立が発生。さらにスペインはカカオプランテーションの権利を留保し、軍も駐留していたため、問題が複雑化、1969年には全スペイン人が撤退し、社会インフラが停止した。ここで国連の支援が入り、スペインの援助が再開する。以降の歴史は、赤道ギニアの歴史の項を参照。なお、1973年から1979年まではフェルナンド・ポー島から改名されマシアス・ンゲマ・ビヨゴ島(初代大統領であるマシアス・ンゲマに由来)と呼ばれ、首都名もサンタ・イサベルからマラボに改名された。その後、ブビ族の王である、モカ王(王位:1875年-1899年)の息子でマラボ王の異父母であるアドルフォ・ビオコの敬意から現在の島名であるビオコ島となっている。