ニコライ・カメンスキー(Николай Каменский / Nikolay Kamensky)率いるロシア帝国の軍が1810年、包囲の後にパザルジクを占領したが、オスマン帝国に奪還された。19世紀中ごろ、パザルジクは人口およそ25,000人の都市となっており、工芸と交易の重要な拠点であった。火曜日と水曜日には大きな市が開かれた。電報のある郵便局が設置された。1837年、生神女聖堂が建造された。この聖堂はその建築と木造の彫刻によって、重要な国家的遺産となっている。19世紀の中ごろのパザルジクは文化的な拠点としても発展し、1847年には学校が、1848年には女子学校が、1868年にはチタリシテが開設され、1870年には女性連合Prosvetaが結成された。
露土戦争の間、町は退却するトルコ人の軍によって焼き払われた。パザルジクは1878年にロシア帝国の将軍ヨシップ・ヴラジミロヴィチ・グルコ(Иосиф Владимирович Ромейко-Гурко / Joseph Vladimirovich Gourko)によって解放された。パザルジクは発展しマリツァ川右岸にまで拡大した。右岸地区には兵舎や農学校が建設された。
パザルジクの生神女聖堂は、デバル学校の匠たちによって描かれた、ブルガリアで最も重要なイコンのコレクションを有している。また、新約聖書や旧約聖書にあるシーンを描いた木彫りの彫刻や、スタニスラフ・ドスペフスキ(Станислав Доспевски / Stanislav Dospevski)によるイコンもある。