初期の映画作品ではサミュエル・ゴールドウィンによるエディ・カンターのミュージカルにおいて、コーラスガール個々の顔に次々とクローズアップする「parade of faces」、舞台中あるいは舞台外にもダンサーを動かし万華鏡のようなパターンを形作るなどの技術を向上していった[10] 。バークレーの万華鏡のような演出を頭上から撮影する技術は、カンターの出演作や、1932年のユニバーサル・ピクチャーズのドラマ映画『夜の世界』の楽曲『Who's Your Little Who-Zis?』でみられるように独創的で影響力のあるものであった。
革新的な振付
バークレーの振付曲の定番は、舞台の領域内で始まるが、すぐに撮影におさまる範囲でその領域を出て、拍手をする観客が映りカーテンが降りる。通常は4台のカメラを使用するが、バークレーは自身のビジョンをコントロールするため1台のカメラで成し遂げるため、監督はそれを編集することができなかった[11]。振付師としてバークレーはミュージカル曲の演出を独立して進めることに同意されており、映画の筋書きから大幅にずれることも多かった。バークレーは映画の他のシーンをほとんど見ていなかった[11]。バークレーが振り付けた曲は多くがアップビートで、要旨に反して美しさに焦点を当てたものであり、そのコストは1分間で1万ドル前後となり、映画の予算を越えることもあった[11]。ほぼ唯一の例外は『ゴールド・ディガース』の戦争にまつわる切ない楽曲『Remember My Forgotten Man』で、世界恐慌のさなか、第一次世界大戦退役軍人への不当な扱いに抗議の意を込められた。
1960年代後期、キャンプの流行により、バークレーのミュージカルは再び脚光を浴び、各地の大学で講義を行なった。「Gold Diggers of 1933」をもじった「"Cold Diggers of 1969"」として風邪薬であるコンタック・カプセルの1930年代風コマーシャルの監督を行ない、時計の針に見立てたダンサーたちを頭上から撮影した[14]。75歳となったバークレーはブロードウェイに復帰し、『ノー・ノー・ナネット』再演の演出をし、ワーナー時代の同僚で『四十二番街』のスターであるルビー・キーラーが主演しヒットした。1970年、バークレーとキーラーは映画『The Phynx』にカメオ出演した。
^Spivak, Jeffrey (2011). Buzz : the life and art of Busby Berkeley. Lexington: University Press of Kentucky. ISBN9780813126449. OCLC703155214
^ abRubin, Martin (1993). Showstoppers : Busby Berkeley and the tradition of spectacle. New York: Columbia University Press. ISBN0231080549. OCLC26930276
^Johns, Howard, (2004). Palm Springs Confidential: Playground of the Stars. Fort Lee, New Jersey: Barricade Books. ISBN1-56980-297-1
^Brooks, Patricia; Brooks, Jonathan (2006). “Chapter 8: East L.A. and the Desert”. Laid to Rest in California: a guide to the cemeteries and grave sites of the rich and famous. Guilford, CT: Globe Pequot Press. pp. 240–2. ISBN978-0-7627-4101-4. OCLC70284362
Busby Berkeley Collection includes mainly correspondence between Busby Berkeley and Gen Genovese, held by the Jerome Lawrence and Robert E. Lee Theatre Research Institute, The Ohio State University Libraries.