ハリー・ケリー(Harry Carey, 1878年1月16日 - 1947年9月21日)は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである[1]。本名ヘンリー・ディウィット・ケイリー二世(Henry DeWitt Carey II)、別名としてH・D・ケリー(H. D. Carey)、ハリー・D・ケリー(Harry D. Carey)、長男のハリー・ケリー・ジュニアが登場してからはハリー・ケリー・シニア(Harry Carey Sr.)ともクレジットされた[1]。
人物・来歴
1878年(明治11年)1月16日、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区に「ヘンリー・ディウィット・ケイリー二世」として生まれる[1]。
ニューヨーク大学ロースクールに進むが、ボート事故の後、肺を病み、療養中に戯曲を書く[1]。記録に残る最古の映画出演作は、1909年(明治42年)、D・W・グリフィス監督の Bill Sharkey's Last Game である。1912年(大正元年)、グリフィスが監督した『見えざる敵』に出演している[1]。1914年(大正3年)、自らプロデュースした主演作The Master Cracksman で映画監督としてもデビューする[1]。このころの共演者は、当時の妻であったファーン・フォスターであるが、後に離婚する。
1916年(大正5年)には、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)が同年設立した子会社・ブルーバード映画で『田舎者の都会見物』をジョージ・マーシャルと共同で監督[1]、同作は日本でも公開された[2]。1917年(大正6年)からフレッド・ケルシー監督による短篇西部劇に連続的に出演、同年、『武力の説教』に始まるジャック・フォード(のちのジョン・フォード)監督による一連の「シャイアン・ハリーもの」への主演を開始、1919年(大正8年)の『恵みの光』までの間、ケリーのフィルモグラフィがジョン・フォードのそれとほぼ一致する[1][3]。
1920年(大正9年)1月、女優のオリーヴ・フラー・ゴールデン(オリーヴ・ケリー)と結婚、翌1921年(大正10年)5月16日、長男のハリー・ケリー・ジュニアが誕生する[1]。
1939年(昭和14年)に製作・公開されたフランク・キャプラ監督の『スミス都へ行く』での演技が評価され、翌1940年(昭和15年)に行われた第12回アカデミー賞で助演男優賞にノミネートされた[1]。
1947年(昭和22年)9月21日、カリフォルニア州ロサンゼルス市ブレントウッドで肺がんにより死去した[1]。満69歳没。ニューヨーク市ブロンクスのウッドローン墓地に先祖・家族とともに眠る[4]。映画産業への貢献により、ハリウッドのヴァイン街1501番地にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を刻む[1]。
翌1948年(昭和23年)に公開された『三人の名付親』において、同作を監督したジョン・フォードは下記の献辞をケリーに送った[1]。
初期西部劇の空に輝く明星、ハリー・ケリーに捧ぐ。
To Harry Carey, Bright Star Of The Early Western Sky.
— ジョン・フォード、『三人の名付親』(1948年)[1]
おもなフィルモグラフィ
特筆以外はすべて出演作である[1]。
関連事項
註
外部リンク
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