ニッキー・ホプキンス(Nicholas Christian Hopkins、1944年2月24日 - 1994年9月6日)は、イングランドのロック・ミュージシャン。ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器を演奏して、1960年代から70年代にかけてのイギリスとアメリカのポピュラー・ミュージックの様々なスタジオ録音に多数参加した。ロック史において極めて重要なセッション・ミュージシャンの一人と見なされている。
経歴
初期の活動
1960年代初頭のスクリーミング・ロード・サッチ率いるサヴェージズのピアニストとして経歴をスタート、以降は当時のミュージック・シーンにおける売れっ子プレーヤーの一人となり、流暢で機敏なブギウギは、多くのヒット・ナンバーのピアノ・スタイルに影響を及ぼした。
シェル・タルミー(英語版)やミッキー・モストといった独立プロデューサーを通じてキンクスやドノヴァンの作品、そして1965年にはタルミーがプロデュースしたザ・フーのデビュー・アルバム『マイ・ジェネレーション』[注釈 1]の録音に参加した。さらに、ビートルズやジョン・レノン、ジェフ・ベックなどの60年代のトップ・アーティストのレコーディングに参加した。また、シリル・ディヴィス・オール・スターズ(英語版)に加入した。
1967年、ジェフ・ベック・グループのアルバム『トゥルース』の録音に参加。発表後のイギリス・ツアーの後で加入し、『ベック・オラ』(1969年)の録音に参加。同年に行なわれたアメリカ・ツアー中の6月に脱退して、サンフランシスコのミュージシャンに接近。ジェファーソン・エアプレインのキーボーディストとしてウッドストック・フェスティバルに参加。またスティーヴ・ミラー・バンドのアルバムに参加。さらにクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスに加入してアルバム制作に関わるなど、「サンフランシスコ・サウンド」の確立に貢献した。
しかし彼は若い頃からクローン病で苦しんおり、病気と外科治療によってツアーへの参加が困難になったので、活動の比重をスタジオ・セッションに置いた。ただし体調が比較的良好だった時はツアーにも参加した。
ローリング・ストーンズとの活動
ローリング・ストーンズとは、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』(1967年)、『サタニック・マジェスティーズ』(1967年)、『ベガーズ・バンケット』(1968年)、『レット・イット・ブリード』(1969年)、『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)、『メイン・ストリートのならず者』(1972年)などで共演。
1969年に『レット・イット・ブリード』の制作期間中、スタジオでキース・リチャーズの到着を待つ間に、ミック・ジャガー、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツ、ライ・クーダーと共にジャム・セッションを行なった。このセッションの音源は、1972年にローリング・ストーンズ・レコードから『ジャミング・ウィズ・エドワード』のタイトルで発表された。「エドワード」とは、ホプキンスの愛称だった[注釈 2]。
1971年から1973年までは彼等のツアーにも参加した。1971年のイングランドとスコットランド、1972年の北アメリカ、1973年のオーストラリア、ニュージーランドのツアー[注釈 3]が含まれる。
その後
サンフランシスコに戻って、プレイリー・プリンス(英語版)とピート・シアーズ(英語版)を迎えて自分のバンドの活動を開始する。1973年にソロ・アルバム『夢みる人(英語版)』を発表。ジョージ・ハリスン[注釈 4]、ミック・テイラー、プリンスらが参加した。このアルバムでは、彼の稀な歌唱を聴くことができる。
1975年8月にはグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシア・バンド(英語版)に参加して大晦日のカウント・ダウン・ショウまで参加した。同年、3枚目のソロ・アルバム『No More Changes』[2]を発表[注釈 5]。
1992年から1993年にかけて、日本のTVドラマと映画の音楽も手掛けた。『逃亡者』、『パ★テ★オ』、『並木家の人々』(いずれもフジテレビ系)、映画『ラストソング』のサウンドトラックは、彼の名義でCDも発表された。
死
1994年9月6日にテネシー州ナッシュビルの聖トマス病院で、腸の手術後に生じた併発症で死去した。50歳没。
死の直前まで、レイ・コールマン(英語版)と共に自叙伝を執筆していた。
エピソード
リハーサルをほとんど行なわないセッション・プレーヤーとして有名だった。セッション・スタジオで漫画本を読む習慣もよく知られていた。
サイエントロジーのメンバーで、1989年10月に国際サイエントロジスト協会(英語版)(International Association of Scientologists, IAS)の自由メダルを受章した。
浜田省吾のアルバム『Home Bound』(1980年発表)のレコーディングに参加した際、浜田のことをとても気に入り「一緒にツアーをしよう」等と持ち掛けたという。浜田は当初社交辞令かと思っていたが、ホプキンスは浜田が帰国する当日になってもしつこくその話をし、さらに住所と電話番号を書いたメモを渡してきたという。ホプキンスは上記の通り1994年に死去したため、2人のツアーは実現しなかった。
ディスコグラフィ
アルバム
主な参加作品
脚注
注釈
出典
引用文献
- Neill, Andy; Kent, Matt (2007). Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978. London: Virgin Books. ISBN 978-0-7535-1217-3
外部リンク