トリエステ (Incrociatore pesante Trieste) は[注釈 1]、イタリア王立海軍 (Regia Marina) が戦間期に建造し、第二次世界大戦で運用した巡洋艦[注釈 2]。
トレント級重巡洋艦の2番艦。
姉妹艦は「トレント」[注釈 3]。
艦歴
STT造船所 (Stabilimento Tecnico Triestino) で建造[注釈 4]。1925年(大正14年)6月22日、起工。1926年(大正15年)10月24日、進水。1928年(昭和3年)12月21日、就役。1931年(昭和6年)に小規模な改造を実施した。1932年(昭和7年)初頭に第一次上海事変が勃発すると姉妹艦は極東に派遣されたが、本艦は地中海にとどまった。1937年(昭和12年)に改修工事をおこなう。
1939年(昭和14年)5月10日、ユーゴスラビア王国のパヴレ・カラジョルジェヴィチ摂政とオルガ后がイタリアのローマを訪問した[9]。翌11日、ナポリ湾で海軍演習と観艦式が行われ[10]、トリエステはイタリア国王ウンベルト2世の御召艦となり、バヴレ摂政夫妻、ムッソリーニ伊首相も本艦に乗艦した[注釈 5]。
第二次世界大戦
1939年(昭和14年)9月初頭、第二次世界大戦が勃発する。イタリア王国は中立の立場をとったが、1940年(昭和15年)6月10日に枢軸陣営として参戦、地中海戦線が形成された(地中海攻防戦)。本級2隻(トレント、トリエステ)と準同型艦「ボルツァーノ」は行動を共にし、第3戦隊 (III Divisione Incrociatori) を編制していた。7月、カラブリア沖海戦に参加してイギリス地中海艦隊と交戦する。8月31日、イギリス軍のハッツ作戦に対する出撃に参加。10月12日、パッセロ岬沖海戦で沈没したイタリア駆逐艦「アルティリエーレ」救援のため第3戦隊が出動するが、イギリス艦隊と接敵しなかった。11月のタラント空襲では損害をうけず、同月のスパルティヴェント岬沖海戦に参加した。
1941年(昭和16年)2月、ジェノヴァ砲撃のために出撃してきたイギリス艦隊(H部隊)迎撃のために出撃したが、空振りに終わった。3月ナポリからトリポリへ向かう兵員輸送船団を支援。同月、ラスター作戦邀撃にともなうマタパン岬沖海戦に参加。この海戦でザラ級重巡洋艦3隻が沈没し、生き残った同級3番艦「ゴリツィア」が、本級と行動を共にするようになった。8月、ミンスミート作戦で出撃してきたイギリス艦隊(H部隊)の迎撃のため出撃する。
9月、マルタ攻囲戦にともなう英領マルタへの補給作戦(ハルバード作戦)が行われ、その迎撃にトレント級重巡も出撃した。11月、トリポリへ向かう北アフリカ戦線むけ枢軸国補給船団の遠距離護衛に従事する。この枢軸船団を、イギリス海軍の軽快艦艇部隊(K部隊)が襲撃する。夜戦で輸送船7隻と駆逐艦1隻が沈没、さらにイギリス潜水艦「アプホルダー」の雷撃でイタリア駆逐艦「リベッチオ」が沈没した(デュースブルク船団の戦い)。
11月21日、本艦はイギリス潜水艦「アトモスト」の雷撃で大破、戦線を離脱した。
1942年(昭和17年)6月15日、アレキサンドリアからマルタへむかう連合軍輸送船団(ヴィガラス作戦)邀撃に出撃した姉妹艦「トレント」が、空襲で損傷したあと、イギリス潜水艦「アンブラ」の雷撃で撃沈された。第3戦隊は、重巡3隻(トリエステ、ゴリツィア、ボルツァーノ)で再編される。8月、連合軍のペデスタル作戦を阻止するために出撃する。だが重巡「ボルツァーノ」と軽巡「ムツィオ・アッテンドーロ」が、イギリス潜水艦「アンブロークン」の雷撃で大破した。枢軸陣営はマルタへの補給阻止に失敗した。
この後、イタリア側は艦艇用燃料の欠乏もあって、積極的な行動をとれなくなる。11月のトーチ作戦で地中海攻防戦は決着がつき、イタリア勝利の可能性はなくなった。1943年(昭和18年)4月10日、ラ・マッダレーナでアメリカ陸軍航空軍のB-24爆撃機84機による空襲に遭う。「トリエステ」は被弾して沈没した[注釈 6]。
戦後浮揚された「トリエステ」は、軽空母への改造を計画したスペインに売却された。だがそれは中止となり、スクラップとして売却された[注釈 7]。1946年(昭和21年)10月18日、除籍。
出典
注釈
- ^ 〔伊國〕巡洋艦ツリヱスト 全長 645呎 幅 67呎5吋 基準排水量 10,000噸 速力 35.5節 備砲(8吋-8門 3.9吋高角-16門) 魚雷發射管 8門 竣工1928年12月 同型艦他に一隻 トレント
- ^ 一等巡洋艦“トリエスト Triest” 全要目{排水量10,000噸 速力33.5節 備砲20糎砲8門 魚雷發射管(53糎)8門 起工1925年3月 竣工1928年12月 建造所アドリアチコ造船所} “ザラ級”に先んずる一等巡洋艦で全長190.18米、幅20.57米、平均吃水5.79米。10糎高角砲16門(2聯装8基) 8糎砲3門、4糎高角砲4門、小砲14門と言ふモリたくさんな備砲を有してゐる。8門の發射管は甲板上に2聯装に装備され、カタパルトは艦首に1基、哨戒兼爆撃水上機3機を搭載してゐる。/機關は重油専燒で搭載量3,000噸、35.5節の軸馬力150,000馬力。乗員723名である。主砲20糎砲は例外的に長大なる着彈距離を有し、最大仰角45度なりと稱せられてゐる。
- ^ 巡洋艦トレント(一九二八年九月竣工) 基準排水量一〇〇〇〇噸、時速三五節半。同年十二月竣工のトリエステと同型。一九二三 ― 四年度計畫に依り二五年八月に起工。前方艦檣にカタパルトを装着す。
- ^ 一等巡洋艦 “トリエスト Trieste” 全要目{排水量10,000噸 速力35.5節 備砲20糎砲8門 魚雷發射管(53糎)8門 起工1925年6月 竣工1930年3月 建造所 テクニコ造船所} “ザラ級”に先んずる一等巡洋艦で全長190.18米、幅20.57米、平均吃水5.79米。10糎高角砲16門(2聯装8基) 8糎砲3門、4糎高角砲4門、小砲14門と言ふモリたくさんな備砲を有してゐる。8門の發射管は甲板上に2聯装に装備され、カタパルトは艦首に1基、哨戒兼爆撃水上機3機を搭載してゐる。/機關は重油専燒で搭載量3,000噸、35.5節の軸馬力150,000馬力。乗員723名である。主砲20糎砲は例外的に長大なる着彈距離を有し、最大仰角45度なりと稱せられてゐる。高速力一萬噸重巡として早く誕生したものである。
- ^ (ナポリ十二日同盟)[12] 伊太利皇帝の賓客として十日ローマを訪問したユーゴスラビアのパール攝政並びに同妃兩殿下の御一行は十一日早朝ローマからナポリに御到箸、直ちにナポリ灣頭に於けるパール攝政歡迎の海軍機動演習に臨まれたムソリユー首相も巡洋艦トリエステ號に御座乘の伊太利皇帝エマニエル三世並にバール攝政に扈從して演習を統監したが演習終了と共に觀艦式に移りナポリ灣頭に豪華な伊太利ユーゴー交驩の情景を展開した(記事おわり)
- ^ 〔 北アフリカ聯合軍本營(INS 十二日發) 〕[32] 聯合軍は十日伊領サルヂニア島のマグレナ軍港を空爆せる際、伊巡洋艦トリエスト號(一萬トン)を撃沈した 右は上空よりの偵察で判明したものである、同時に巡洋艦ゴリツイア號にも命中彈を投下して撃破した(記事おわり)
- ^ スペイン海軍が最初に保有した空母は、1967年(昭和42年)8月にアメリカ合衆国から貸与された軽空母「カボット」(スペイン移籍後はデタロ)であった。
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『同盟旬報第3巻第12号(通号067号)(同盟通信社)』1939年5月。Ref.M23070013400。
- 『同盟旬報第3巻第12号(通号068号)(同盟通信社)』1939年5月。Ref.M23070013400。
関連項目