この項目では、イギリス出身のプロレスラーでスティーブン・リーガルのリングネームを名乗る人物について説明しています。アメリカ合衆国出身のプロレスラーについては「スティーブ・リーガル 」をご覧ください。
ウィリアム・リーガル
プロフィール リングネーム
ウィリアム・リーガル キング・リーガル ロード・スティーブン・リーガル サー・ウィリアム・リーガル スティーブン・ウィリアム・リーガル スティーブ・リーガル ロイ・リーガル スティーブ・ジョーンズ ダレン・マシューズ 本名
ダレン・ケネス・マシューズ ニックネーム
悪の英国紳士 悪魔紳士 悪のコミッショナー 英国親善大使 冷血貴族 身長
191cm 体重
110kg - 115kg[1] 誕生日
(1968-05-10 ) 1968年 5月10日 (56歳) 出身地
イギリス イングランド ウェスト・ミッドランズ州 スタッフォードシャー スポーツ歴
レスリング トレーナー
マーティ・ジョーンズ デビュー
1983年 テンプレートを表示
ダレン・マシューズ (Darren Kenneth Matthews 、1968年 5月10日 – )は、アメリカ合衆国 を主戦場とするイギリス のプロレスラー 。イングランド ・ウェスト・ミッドランズ州 スタッフォードシャー 出身。ウィリアム・リーガル (William Regal )のリングネーム で特に知られる。
来歴
1983年 、イギリス のブラックプール において、サーカス などに出場するカーニバル・レスラーとして15歳でデビュー[2] [3] 。その後はロビー・ブルックサイド とタッグチーム を結成し、ダイナマイト・キッド やクリス・アダムス を輩出したジョイント・プロモーションズで活動[4] 。オットー・ワンツ の主宰するドイツ ・オーストリア のCWA をはじめ[1] 、フランス や南アフリカ など海外にも遠征した[2] [3] 。
1991年 にWWF (のちのWWE)のトライアウトを受けるが契約には至らず[2] [3] 。同年のWCW の英国公演に参加し、高い評価を得たことでWCWと契約を結び渡米した[2] [3] 。1993年 2月より英国の好青年ベビーフェイス 、スティーブ・リーガル (Steve Regal ) としてWCWのリングに登場。6月、嫌味な英国貴族のヒール 、ロード・スティーブン・リーガル (Lord Steven Regal ) に転身。以後、米国を本拠地に活動を始めた。
WCWでは1993年から1997年 にかけてデイビーボーイ・スミス 、リッキー・スティムボート 、ラリー・ズビスコ 、ジョニー・B・バッド 、レックス・ルガー 、ウルティモ・ドラゴン らと世界TV王座 を争う[5] 。サー・ウィリアムことビル・ダンディー をマネージャー に従え、ザ・パトリオット との米英抗争も行われた[6] 。
タッグ戦線でも活躍し、フランス貴族ギミック の若手ジャン=ポール・レベック と英仏貴族コンビを結成したほか、アメリカ深南部 出身のレッドネック だったボビー・イートン に英才教育を施し、クイーンズ・イングリッシュ を話す紳士に変身させる(リングネームも紳士らしく、愛称の「ボビー」から正式名称の「ロバート」にマイナーチェンジさせた)[7] [8] 。彼らとのチームは、その昔「貴族には青い血が流れている」と信じられていたことから、ブルー・ブラッズ (The Blue Bloods )と名付けられた[7] 。イートンとのコンビでは、ナスティ・ボーイズ (ブライアン・ノッブス &ジェリー・サッグス )とハーレム・ヒート (スティービー・レイ &ブッカー・T )を相手に、WCW世界タッグ王座 を巡る三つ巴の抗争を展開している[9] 。
1994年 6月には新日本プロレス に初来日。8月24日にはWCWマットでアントニオ猪木 ともシングルマッチを行った[6] 。1995年 の再来日では、4月16日に広島サンプラザ にて橋本真也 のIWGPヘビー級王座 に挑戦[1] 。橋本のフィニッシャー である垂直落下式DDT を返しており、日本でも高い評価を得た(2005年 に橋本が死去したため、現在この技を返した唯一のレスラーとなっている)。以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、1997年 8月にはG1クライマックス に初出場している[1] 。
1998年 2月、当時売り出し中だったビル・ゴールドバーグ との試合において、ワーク の範囲外の攻撃を仕掛けたためWCWを解雇される[2] [3] 。4月にWWFと契約し、10月よりビンス・ルッソー 考案の肉体労働者 ギミック「リアル・マンズ・マン (The Real Man's Man )」としてデビューしたが、大失敗に終わる(このギミックは、2003年 に行われたRAW10周年記念特番でも「外してしまったギミック」の一つとして紹介された)[2] 。1999年 1月、薬物依存の治療のためにWWFのサポートを得て入院するも、4月の退院とともにWWFはリーガルとの契約を解消[2] [3] 。再びロード・スティーブン・リーガルとしてWCWに復帰した。
WCW復帰後はデビッド・テイラー とブルー・ブラッズを再編し、北アイルランド 出身のフィット・フィンレイ とも共闘するが、2000年 2月に再びWCWを解雇され、WWFと再契約。9月、現在のリングネームであるウィリアム・リーガル (William Regal )に改名し、英国親善大使のヒールとしてWWF再デビューを果たす。WCW時代の貴族ギミックと同様、スーツ姿でアメリカ人にテーブルマナーをレクチャーし、押しつけがましくモラルを説く嫌味ぶりで観客のヒートを煽った[3] 。アメリカ英語 を徹底的に見下し、発音や綴りを英国式に正すレッスンをリング上で行ったこともある。
2000年10月にはアル・スノー を破りヨーロピアン王座 を獲得[10] 。以後もストーン・コールド・スティーブ・オースチン やハードコア・ホーリー らを相手に防衛戦を続ける一方、2001年 3月にWWFの(アングル 上の)コミッショナーに就任するなど、リング内外で活躍した。ヨーロピアン王座陥落後はクリス・ジェリコ と抗争を展開、4月のバックラッシュ ではコミッショナー権限を悪用し、状況に応じて自分が有利になるようルールが変更される「ダッチェス・オブ・クイーンズベリー・マッチ(Duchess of Queensbury Match)」なる試合を組み、ジェリコから勝利を収めた[11] 。
同年のWCW買収に伴い展開されていたWWF対アライアンス の抗争ストーリーにおいてはベビーフェイス 的な振る舞いを見せることもあったが、10月にWWF側からアライアンス側に寝返る。2001年のサバイバー・シリーズ でアライアンスはWWFに敗北し、ストーリー上アライアンスの人間はタイトル保持者以外全員解雇された。リーガルは復職するために「キス・マイ・アス・クラブ(Kiss My Ass Club)」という企画において、リング上でビンス・マクマホン の尻にキスをすることとなった。
2002年 も1月のロイヤルランブル にてエッジ からインターコンチネンタル王座 を奪取[12] 、以降もロブ・ヴァン・ダム と抗争するなど活躍したが、2003年 春から約1年間、心臓病 のため長期欠場。2004年 の復帰後はフェイスターン し、ユージン 、タジリ と組んで、タッグ戦線で活動した。特にリーガルの「お茶汲み」として絡んだタジリとの間にはプライベートでも強固な信頼を築いた。タジリが呼ぶ「師匠」とは紛れもなくリーガルのことである。
2005年 6月、トレードによりRAW からスマックダウン に移籍。英国出身の新人ポール・バーチル と英国人ヒールのタッグとして活動を開始した。その後バーチルが『パイレーツ・オブ・カリビアン 』のジャック・スパロウ を真似た海賊 ギミックになり、それを嫌悪したリーガルは彼とのタッグを解消。
2006年 、キング・オブ・ザ・リング を制覇したキング・ブッカー の王国に加入し、デイブ・フィンレイ と共に活動。ブッカーから "サー " の称号を授かり、サー・ウィリアム・リーガル (Sir William Regal )と名乗ったが、ノー・マーシー にて訣別。以後はブルー・ブラッズの盟友デイブ・テイラー(デビッド・テイラー)とのコンビを復活させてタッグ戦線に進出した。
2007年
2007年 6月に行われたドラフトにてRAWに移籍。8月6日、RAWの新ジェネラルマネージャー(GM)を決定するバトルロイヤル に参加し、最後までリング下に隠れて勝利を収め、RAWのGMとなった。
2008年 4月21日、RAWの3時間スペシャル放送内で行われたワンナイト・トーナメント「キング・オブ・ザ・リング 」において、決勝戦でCMパンク を破り優勝。その後ミスター・ケネディ との抗争に入るが、敗者退団マッチに敗れRAWを解雇される(実際には薬物規定違反による謹慎)。7月頃からフリーとして復帰し、ジェイミー・ノーブル との抗争をきっかけにレイラ を従えるようになる。11月の英国遠征ではヒールながら地元のファンの声援を浴び、サンティーノ・マレラ を破ってIC王者 となった。
その後はCMパンク と抗争し、2009年 1月に王座を奪われる。同年6月のトレードでECW へ移籍。ウラジミール・コズロフ やエゼキエル・ジャクソン を従えてヒール軍団のリーダー格となり、クリスチャン の保持していたECW王座 に何度となく挑戦した。ECW終了後はRAWに復帰し、2010年 2月から始まった新番組NXT のシーズン1 ではスキップ・シェフィールド を指導するプロを担当した。RAWでは再びコズロフと組んでいたが仲間割れを起こし、サンティーノ・マレラとの新コンビでフェイスターンしたコズロフにチョークスラム を見舞われた。
2011年 はベビーフェイスのポジションに回り、コメンテーターを担当したNXTのシーズン5 ではJTG とジェイコブ・ノヴァック の師弟コンビと抗争したり、調整役(マッチメーカー)になったりした。4月末に行われた追加ドラフトでスマックダウンに移籍した。
2012年 はバトルロイヤル などにのみ出場し、新生NXTやFCW のコメンテーターを主に担当。同年終盤に行われた英国遠征では、シェイマス の友人としてビッグ・ショー との抗争に巻き込まれるストーリーが組まれ、試合も数回行った。
2013年 、NXTでタイソン・キッド に執拗な暴行を加えたカシアス・オーノ を制止したが、それによって「ヒールのリーガル」に憧れていたオーノが憤慨。数週間の抗争の後に試合を行い、勝利を収めた。
2014年 7月31日収録(8月27日放送)のNXTにおいて、新しいゼネラル・マネージャーに就任した。
2022年 1月5日、WWEとの契約が解除され[13] 、3月6日よりAEW に登場した[14] 。しかし、1年足らずの12月30日でAEWから離れた。
2023年1月、1年でWWEに復帰。グローバル・タレント・ディベロップメント部門の副部長となった[15] 。
エピソード
スティーブン・リーガルというリングネームは、18歳のときにアメリカのプロレス雑誌を見て気に入ったアメリカ人レスラー、スティーブ・リーガル (1980年代にNWAセントラル・ステーツ地区 やAWA で活躍した選手)[16] から拝借したもの。
大の爬虫類好きとしても知られ、家ではヘビやトカゲ、カメを飼っている。その他にも猫と犬もいる。彼はインタビューで「人間が一番下品な生物」と語っている。
1997年、日本からの帰路の飛行機に搭乗中、泥酔し客室乗務員 に排尿したとして逮捕されている。またこの事件により飛行機は緊急着陸している。
2003年から心臓病に悩まされていたが、2005年に心臓移植をする話もあった。
日本で初めてRAW TVショー が行われた際に、タジリと組んで世界タッグに挑戦し勝利している。なお、この時日本のファンからは大"師匠"コールが起こり、実況のジム・ロス は「何と言っているのか分かりません」と説明できなかった。
2005年、自伝 Walking a Golden Mile を発売。
2007年12月に行われたRAW15周年記念大会ではフィナーレにすべてのスーパースターがリング上に集いビールで祝杯を上げたが、CMパンクとともにコーラを飲んでいた。
WWE・NXT に所属するチャーリー・デンプシー は実子。
リングネーム
現在、過去に名乗ったことがあるリングネーム
ダレン・マシューズ
スティーブ・ジョーンズ
スティーブ・リーガル
ロイ・リーガル
"ロード" スティーブン・リーガル
リアル・マンズ・マン
スティーブン・ウィリアム・リーガル
ウィリアム・リーガル(現在も使用)
"サー" ウィリアム・リーガル
得意技
リーガル・ストレッチ
リーガル・ストレッチ
変形STF
以前は、ロイヤル・ストレッチ と言う技名で使用していた。
相手の脇の下をくぐってフェイスロックで極める事で肩も同時に極めているのが特徴で、片腕が浮いているためより脱出が困難になる。
リーガル・カッター
相手をコブラクラッチ の体勢からネックブリーカードロップ の体勢で相手の後頭部からマットに叩き落とす技。
リーガル・プレックス
レッグロック・スープレックスと同じ技。
変型バックドロップ・ホールド。
頭を背後から相手の右脇に入れたバックドロップの体勢から、自らの右腕で相手右足の膝裏を抱え、左腕は相手の左肩上から回して相手を屈伸させるように両腕をクラッチ。そのまま反り投げてフォールする。
リーガル・ボム
タイガーボム と同じ技。
相手を前かがみにさせた後、ダブルアームの体勢で持ち上げ、さかさまの状態で胴もしくは太腿の位置に持ち替えて相手をパワーボムの要領で叩きつける。
神の拳 (The Power of The Punch )
ブラスナックル をこっそり装着してのパンチ。反則技。
ニー・トレンブラー
近年のフィニッシャー。前かがみになっている相手の顔面を狙って、ダッシュして横から膝をかち上げるように当てる。
長滞空シュミュット式バックブリーカー
非常に長い間抱えておいて極めるシュミュット式のバックブリーカー。
ハーフネルソン・スープレックス
ダブルアーム・スープレックス (バタフライ・スープレックス)
ヨーロピアン・アッパー・カット
獲得タイトル
レイラ を同伴しての2回目のインターコンチネンタル王座 戴冠時
WWF / WWE
WCW
MCW
PWI
1994年度PWIシングルレスラー・ランキング : 18位(全500位中)
入場曲
Noble Occasion
Trumpet Voluntary
Real Man’s Man
Promenade
Gladiators
Regality - 現在使用中
We Salute
脚注
外部リンク
リダイレクトの所属カテゴリ