デイブ・フィンレー (Dave Finlay、1958年 1月31日 - )は、北アイルランド のプロレスラー 。ベルファスト 出身。フルネーム はデビッド・エドワード・フィンレー・ジュニア (David Edward Finlay Jr.)。
息子のデビッド・フィンレー 、ブロガン・フィンレー もプロレスラーである。
来歴
キャリア初期
1978年 10月、プロレスラーとして正式にデビューし、ジョイント・プロモーションズを拠点にヒール のポジションで活動。当時イギリスへ修行に来ていた佐山聡 や前田日明 とも試合を行っている[1] 。
1983年 7月に新日本プロレス に初来日し、初代タイガーマスク とも対戦。以降も英国マットを主戦場に、初代ブラック・タイガー のローラーボール・マーク・ロコ ともタッグを組んだ(両者は1989年 10月に行われたWWF 英国遠征の前座試合にも出場している[2] )。1990年 2月には新興団体のオールスター・プロモーションズにおいて、トニー・セント・クレアー からブリティッシュ・ヘビー級王座を奪取[3] 。翌1991年 4月にデイブ・テイラー に敗れるまで、1年以上に渡ってタイトルを保持した[3] 。
1991年2月に新日本に再来日。その後も1990年代 前半は新日本の常連外国人として、TOP OF THE SUPER Jr. にも出場するなど、新日ジュニア全盛期を大いに沸かせた[1] 。この時期、ヨーロッパ ではオットー・ワンツ が主宰するドイツ のキャッチ・レスリング・アソシエーション (CWA)に参戦し、初代タイガーマスクの好敵手だったスティーブ・ライト やWWFで活躍したポール・ローマ と世界ミドル級王座を争っている[4] 。
WCW
1995年 、ベルファスト・ブルーザー (The Belfast Bruiser )のリングネームでWCW に参戦。1996年 にはロード・スティーブン・リーガル と北アイルランド 対イングランド の抗争を展開。4月29日放送(4月22日収録)のマンデー・ナイトロ では駐車場でのストリートファイトマッチが行われた[5] 。その後、フィット・フィンレー (Fit Finlay )と改名し、1998年 5月4日にブッカー・T から世界TV王座 を奪取[6] 。以降もエディ・ゲレロ やクリス・ベノワ らを相手に防衛戦を行うも、6月14日のグレート・アメリカン・バッシュ でブッカー・Tにタイトルを奪還された[7] 。1999年 からはラフファイト の強さを活かしてハードコア戦線 にも進出し、ブライアン・ノッブス ともタッグチーム を結成していたが、怪我で欠場中の2001年 にWCWは崩壊することになる。
WWE
その後2001年 にWWE (当時WWF)のエージェントとして迎えられ、女子選手のコーチも担当するなど裏方業務に専念していた(2004年 3月のWWEのスコットランド ・グラスゴー での興行で、ジェイミー・ノーブル を相手に一時的にカムバックしたことがある[8] )。
2005年 12月にスマックダウン にてレスラー復帰。15歳の時からサーカスでレスリングをしていたという本人の経歴を生かし、「ケンカ好きのアイルランド人」ギミック でアイルランドのシンボルカラーである緑色をベースにしたレスリングユニフォームで戦う。2006年 2月には日本公演にも参戦。その後は年齢(ロードに参加しているスーパースターの中では、リック・フレアー に次ぐ高齢だった)を感じさせぬファイトと、イギリス時代に培ったレスリング技術そしてヒールとしての観客の心理操作技術もいかんなく発揮し、タッグマッチではあるがメインイベントにも出場した。
フィンレーとホーンズワグル
2006年 7月にはボビー・ラシュリー を破りUS王座 を獲得し、2007年 頃からはホーンズワグル とのコンビで活躍。ケイン やレイ・ミステリオ と抗争後、サバイバー・シリーズ のグレート・カリ とホーンスワグルの試合に乱入し、ホーンズワグルを救出。WWEに登場後、初めてベビーフェイス に転向した。この時、フィンレーが実はホーンズワグルの父親であったということが判明(もちろんプロレスにおけるギミックである)。
2008年 に入ってJBL と抗争、3月のRAW でのケン・ケネディ 戦では、JBLへの見せしめとしてケネディをシレイリ(棍棒)でメッタ打ちにし欠場(映画撮影のための予定された欠場)に追い込んだ。3月30日のレッスルマニア24 では、JBLとベルファスト・ブロウル・マッチ で対戦するも敗れる。6月に行われた追加ドラフトの結果、「息子」であるホーンズワグルと共にECW に移籍、ジョン・モリソン &ザ・ミズ やマイク・ノックス 、マーク・ヘンリー などと抗争を繰り広げた。
2009年 のレッスルマニア25 ではマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに出場。その後の追加ドラフトで「息子」のホーンズワグルがRAWへ移籍。自身は6月末のトレードでスマックダウンへ移籍し、ドルフ・ジグラー 、マイク・ノックスと抗争した。
2010年 からはロード・エージェントとしての活動や若手選手の指導役に専念していたが、2011年 3月29日付でWWEとの契約を解除された[9] 。
インディー団体
WWE退団後、2011年 7月26日にEVOLVE に参戦。リングネームをWCW時代に使用していたフィット・フィンレー 名義で出場し、サミ・キャラハン と対戦して勝利した。以降、年齢を感じさせないコンディションを保ってアメリカのみならずヨーロッパのインディー団体にも参戦。
10月7日、ドイツ のハノーファー を拠点とする団体であるEWP(European Wrestling Promotion)にてディック東郷 と対戦して勝利。11月24日、日本の団体であるSMASH に参戦するため来日。SMASH23にてSMASH王座 を保持するスターバック に挑戦して勝利し、ベルトを奪取した。
2012年 2月4日、WCW時代に共に活動したクロウバー とタッグを組んでサム & マヌ と対戦して勝利した。
同月19日、再びSMASHに参戦するため来日し、SMASH 25にて挑戦者のTAJIRI を相手に防衛に成功した。3月にSMASHは解散となったが、19日のTDCホールでの解散興行において"Keep wrestling classic" の言葉を残して去り、TAJIRI はその言葉を胸に新団体であるWNC (Wrestling New Classic)を旗揚げした。フィンレーはWNCにチャンピオンベルトを贈り、WNCチャンピオンシップ管理委員会コミッショナーに就任した。
5月12日、ROH に参戦。ROH世界TV王座 を保持するロデリック・ストロング に挑戦するもベルトを奪取するに至らなかった。
同月24日、WNCに初参戦し、AKIRA を相手に勝利。翌26日にはゼウス と対戦して勝利した。
12月22日、EWPにて息子のデビッド・フィンレー・ジュニア のデビュー戦に親子タッグを結成。イングランドプロレス界の雄であるダニー・コリンズ & ロビー・ブルックサイド の胸を借りてアイリッシュ・ストリートマッチ を行い勝利した。
WWE復帰
2012年、再びエージェントとしてWWEに復帰している。また7月からはプロデューサーとして活動を始めた。
得意技
尻餅をつくようにして、背中に担いだ相手の体を斜めの状態にして頭部をマットに叩きつける。技名は「ケルト の十字架」という意味で、技の形が十字になっていることにも由来している。
変形インディアン・デスロック 。
カミカゼ。
反則行為 であるためレフェリー の注意をそらした隙に、シレイリ(アイルランドの棍棒 。英語版の「シレイリ」 も参照)で相手の頭や膝などを殴打する。
タイトル歴
WWE
WCW
ジョイント・プロモーションズ
ブリティッシュ・ミッドヘビー級王座:5回
ブリティッシュ・ライトヘビー級王座:2回
オールスター・プロモーションズ
ブリティッシュ・チャンピオンシップ
CWA(オットー・ワンツ 派)
CWAインターナショナル・ヘビー級王座:1回
CWA世界ミドル級王座:4回
CWA世界タッグ王座:1回(w / マーティン・ジョーンズ)
CWA英連邦ヘビー級王座:1回
SMASH
入場曲
脚注
外部リンク