スティーブン(Stephen, 1096年頃 - 1154年10月25日)は、ブロワ朝唯一のイングランド王(在位:1135年 - 1154年)。その治世は内戦が収まらず、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれた。
生涯
即位前
フランス貴族であるブロワ伯エティエンヌ2世と、イングランド王兼ノルマンディー公ウィリアム1世(征服王)の娘アデルの間の息子の1人として生まれた。フランスでの名前はエティエンヌ・ド・ブロワ(Étienne de Blois)である。
幼年期は母方の叔父であるイングランド王ヘンリー1世の宮廷で育てられ、1120年のホワイトシップの遭難では従弟のウィリアム・アデリンと一緒にホワイトシップ号に乗船する予定だったが、直前に病気になったため同行出来ず難を逃れた。以後も叔父に可愛がられ、1125年には叔父の計らいでブローニュ伯ウスタシュ3世の娘マティルド(英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した[1][2]。ブロワ伯は兄ティボー4世(シャンパーニュ伯としてはティボー2世)が継承している。
1人息子ウィリアム・アデリンを失ったヘンリー1世には、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁いでいた娘でウィリアムの姉マティルダ(モードは愛称)が唯一の嫡出子となった。そのため、夫と死別したマティルダを1125年に呼び戻して王位継承者とし、1128年にはノルマンディーに隣接するアンジュー伯フルク5世の息子ジョフロワ4世と結婚させていた。この間ヘンリー1世は王族・貴族たちとマティルダへの王位継承を認める誓約を交わしたが、スティーブンも誓約した王族の1人で1126年・1127年に誓約した(他にはヘンリー1世の庶子でマティルダの異母兄のグロスター伯ロバート、マティルダの母方の叔父に当たるスコットランド王デイヴィッド1世もいた)[3]。
ところがヘンリー1世が1135年に死ぬと、スティーブンはヘンリー1世の生前の取り決めや先王の臣下たちの意向にもかかわらず、強引に家臣を率いて所領のフランス・ブローニュからイングランドへ上陸してロンドンに入ると、ロンドン市民と自らの弟・ウィンチェスター司教(英語版)ヘンリー(英語版)にカンタベリー大司教ウィリアム・ド・コルベイユ(英語版)を説得させ、教会主要人物からも王位継承を承認させ、彼らの推戴を受けてイングランド王に即位した(王の宝物庫の管理はウィンチェスター司教が行っていたので、対マティルダ戦の軍資金には事欠かなかった)[1][2][4]。
無政府時代
はじめ安定するかに見えた治世は、マティルダ派の巻き返しによって次第に混乱していった。1136年にはスコットランド王デイヴィッド1世がマティルダの加勢と称して北イングランドへ侵攻、同年にウェールズでもオワイン・グウィネズが反乱を起こした。スティーブンはウェールズの反乱に対応出来ず放置、スコットランドには譲歩を重ね、1136年の第1次ダラム条約(英語版)と1139年の第2次ダラム条約(英語版)でイングランドは北部ノーサンブリアのほとんどを失った[5]。
スティーブンの弱点は、生前のヘンリー1世に対して2度も、従妹マティルダを王位継承者として受け入れ推戴する旨を宣誓していたことである。マティルダは世襲の権利に基いて王位を請求しローマ教皇庁へ訴えたが、スティーブンが聖職者層に譲歩して支持を取り付けていたため、教皇庁はマティルダの訴えに取り合わなかった。一方、スティーブンは有力者たち(賢人会議)による推戴を王位の根拠にしていたが、この時期までの王位継承にはその両者が必要とされ、それぞれが一方を根拠に王位を主張するという事態の解決は、マティルダの息子ヘンリー2世の登場を待たねばならなかった[6]。
スティーブンの治世を3期に分けると、第1期は即位した1135年から1139年までで、この頃までは国土の統治に一定の成功を収めていた。ただし、王位承認のため臣下の者たちにばら撒いた特権・領地・称号・年金授与などが相互に矛盾し、彼らの不信と叛乱を招くことになり、教会とも対立を深めた。1139年から10年間の第2期はマティルダ派の巻き返しにより、ノルマンディーをアンジュー伯に奪われ、イングランドでは秩序が全く失われた。1141年2月にスティーブンはマティルダ派のグロスター伯との第一次リンカーンの戦い(英語版)に敗れて捕虜となったが、マティルダ派もそれ以上の決定的な勝利を得ることはなく、スティーブン王妃マティルドが奮戦してグロスター伯を捕らえ、スティーブンはグロスター伯との捕虜交換でその年のうちに釈放されて王位を保ち、両者は長い内戦を戦うようになる。第3期は1140年代末から始まり、1147年のグロスター伯の死去で翌1148年にマティルダがルーアンに戻り、1151年のアンジュー伯の死去でマティルダ派が凋落した[1][7]。
終結
厭戦気分が漂い始めた1153年に転機が訪れ、1月にマティルダの息子アンジュー伯アンリ(後にイングランド王ヘンリー2世)がイングランドに上陸、西部を平定してロンドンへ迫った。対するスティーブンは1152年に王妃を、1153年8月に長男のブローニュ伯ウスタシュ4世(英名ユースタス)を失い意気消沈、マティルダ派との話し合いに応じた。ウィンチェスター司教ヘンリーとカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベック(英語版)の仲裁で11月6日にアンリとの間に和平協定(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)を結び、自身の終身王位の承認と引き換えにアンリを後継者に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。スティーブンの息子にはウスタシュの弟の次男ギヨーム(ウィリアム)もいたが、ギヨームは王位請求権放棄の代償として、父親、本人そして妻の権利によって所有するイングランドの所領全てを保全する約束を取りつけた[1][8]。
和睦後は双方の傭兵解散、地方貴族が勝手に築いた城(違法城砦(英語版))の破壊、一部貴族の反乱討伐などに奔走したが、1154年10月25日にドーバーで死去。協定の通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝が成立した。遺体は自身が建立に携わり、妻と長男が眠るケントのフェヴァーシャム修道院に埋葬された[1][9]。
子孫
ブローニュ伯はギヨームが継いだが、彼が1159年に亡くなると娘のマリーが相続、フランドル伯ティエリー・ダルザスの長男マチューと結婚するが、1170年に離婚、ブローニュはマチューに奪われる形となった。所領は失ったが、孫娘マティルドがブラバント公アンリ1世に嫁ぎ、その子孫はホラント伯、エノー伯となった。イングランド王エドワード3世の王妃フィリッパ・オブ・エノーはエノー伯家の出身である。
子女
マティルド(マティルダ、1103年/1105年? - 1152年)との間に3男2女をもうけた[10]。
系図
脚注
- ^ a b c d e 松村、P716。
- ^ a b 森、P37 - P38。
- ^ 君塚、P54 - P56。
- ^ 青山、P225 - P226、ペルヌー、P106 - P107、ルゴエレル、P31、君塚、P56 - P58。
- ^ 青山、P304、P332 - P333、君塚、P60。
- ^ 青山、P226 - P227、君塚、P59。
- ^ 森、P39、青山、P227 - P228、ルゴエレル、P32 - P33、君塚、P60 - P63。
- ^ 森、P39 - P40、青山、P228 - P229、ペルヌー、P118 - P120、ルゴエレル、P37 - P38、君塚、P63 - P64。
- ^ 森、P40、青山、P229、君塚、P64。
- ^ Weir、P53 - P55。
- ^ イングランド王スティーブン→マリー・ド・ブローニュ→マチルダ・ド・ブローニュ→マチルダ・ド・ブラバント→アデレード・オブ・ホラント→エノー伯ジャン2世→エノー伯ギヨーム1世→フィリッパ・オブ・エノー
参考文献
関連項目
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- 1603年の王冠連合後のイングランド及びスコットランドの君主
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