クヌート1世
クヌート1世 (古英語 :Cnut cyning、古ノルド語 :Knútr inn ríki、英語 :Canute / Cnut[ 注 1] 、990年 頃 - 1035年 11月12日 )は、ノルマン 系デーン人 で、イングランド王 ・デンマーク王 ・ノルウェー王 を兼ねた王(イングランド王在位:1016年 - 1035年、デンマーク王在位:1018年 /1019年 - 1035年、ノルウェー王在位:1028年 〈1030年 説あり〉 - 1035年)。デンマーク王としてはクヌーズ2世 。カヌート 、クヌット などとも。大王 (英語:the Great、デンマーク語:den Store)と称される。
クヌートのイングランド統治は、グレートブリテン島 とアイルランド島 の間の海域への重要な結び付きをデーン人 に与えた。彼は父親のスヴェン1世 と同様にその地域へ強い関心を持ち、ノース系ゲール人 (英語版 ) に大きな影響力を及ぼした。1026年 にノルウェーとスウェーデンを打ち破った後、神聖ローマ皇帝の戴冠式 (英語版 ) に出席してローマ から帰る途上にて援助のために臣下へ書かれた書簡の中で、クヌートは自身を「全イングランドとデンマーク、ノルウェー人、そしてスウェーデン人の一部の王」 だと考えていた。アングロ・サクソンの王らは 「イングランド人の王(king of the English)」 という称号を用いたが、クヌートはealles Engla landes cynning——「全イングランドの王(king of all England)」 であった。中世 を専門とする歴史家 ノーマン・カンター (英語版 ) は彼を 「アングロ・サクソン史において最も印象的な王」 と見なした[ 5] 。
人物略歴
デンマーク王スヴェン1世 の子。母はスラヴ人 レフ族(ポラニェ族)の族長でポーランド 統一者であるミェシュコ1世 の娘シフィエントスワヴァ [ 6] [ 7] (嫁ぎ先で王妃グンヒルと呼ばれた)。同じくミェシュコ1世の子であるポーランド国王ボレスワフ1世 (勇敢王)は叔父にあたる。ただし、『ヘイムスクリングラ 』、『クニートリンガ・サガ (英語版 ) 』によれば、母はヴェンド の王ブリスラヴ の娘のグンヒルとされている。
父スヴェンおよび叔父ボレスワフ1世配下のポーランド 諸侯と共にイングランド に侵攻して活躍した。1014年 、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、アングロ・サクソン 封建家臣団の会議でイングランド王に推挙され、即位することとなった。1018年には兄ハーラル2世 の死によりデンマーク王位を継承した。彼は富と慣習の文化的結束の下でデーン人とイングランド人をまとめることにより、また残虐行為によりこの権力基盤を維持しようと努めた。その後はノルウェー やスウェーデン に遠征して勢力を拡大した。スカンディナヴィア における敵対勢力との10年にわたる対立の末、彼は1028年のトロンハイム にてノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。ここに、広大な北海帝国 を築き上げたのである。
スウェーデン の都市シグトゥーナ はクヌートによって支配された[ 注 2] [ 10] 。1031年 にはスコットランド王国 のマルカム2世 も彼に服従したが、その地に対する北海帝国の影響力は弱く、結局クヌートの死亡時までは支配が続かなかった[ 12] 。1035年に40歳で死去すると後継者争いが起き、北海帝国はクヌートの死後わずか7年で崩壊した。
生誕と王位
クヌートはハーラル1世 の跡継ぎであるデンマークのスヴェン1世の息子であったため、デンマーク統一の中心となるスカンディナヴィア君主の血統を由来とする。彼の生誕地および生年月日については定かではない。
メールゼブルクのティートマール (英語版 ) による年代記と『王妃エマ讃 (英語版 ) 』は、クヌートの母親がポーランドのミェシュコ1世の娘であったと伝えている。最も有名な中世盛期 のノース人史料であるスノッリ・ストゥルルソン の『ヘイムスリングラ』も、クヌートの母を「ヴィンラン(Vindland)の王女グンヒル」と呼ばれたヴェンド人 の王ブリスラヴ の娘(スラヴ人の王女)と記している[ 14] 。ノース人のサガ におけるヴェンド人の王は常に「ブリスラヴ」という名であるため、これは彼女の父がミェシュコ1世(彼の息子のボレスワフ1世 ではない)であったという仮定と矛盾しない。『ハンブルク教会司行録 (英語版 ) 』におけるブレーメンのアダム はクヌートの母親を、スウェーデンの前王妃でエリク6世 の妻、そしてこの結婚により生まれたオーロフ の母親と同一人物とする点で他と異なる[ 17] 。この問題を複雑にしているのは、『ヘイムスリングラ』や他のサガなどもスヴェン1世がエリク6世の未亡人と結婚したとしているが、これらの史料における彼女はシグリーズ (英語版 ) という明らかな別人という点であり、スヴェンはクヌートを産んだスラヴ人の王女グンヒルの死後に彼女と結婚している[ 18] 。スヴェン1世の妃が何人いたかやその出自については、様々な説が提示されている。ただし、ブレーメンのアダムのみがスウェーデン王オーロフとクヌートの母を同一人物としているため、大抵はアダムの記述を間違いと見なし、スヴェン1世には2人の妃がおり、1人目はクヌートの母、2人目はスウェーデン王妃であった人物と考えられることが多い。また『王妃エマ讃』では、クヌートの兄弟ハーラル2世 をクヌートの弟としている。
クヌートの少年時代の手掛かりは13世紀 の史料『フラート島本 』に見られ、彼の兵法についてはシグヴァルディ の兄弟かつ伝説上のヨムスボルグ 伯爵 であったのっぽのトルケル およびヨムスヴァイキング によって、ポメラニア 沖のヴォリン島 にある彼らの本拠地にて教えを受けたとされる。
13世紀の『クニートリンガ・サガ』には、次のようなクヌートの描写が見受けられる。
クヌートは例外的に高身長で強く、薄く高めに位置しておりやや鉤鼻であったことを除けば、美しい顔立ちであった。色白の顔でもなお、頭髪は美しく濃かった。彼の目つきは、端正な者や鋭い者など他の者らよりも気丈であった。
1013年の夏に彼の父スヴェン王によるイングランド侵攻の際、隷下のスカンディナヴィアの部隊に加わった時点まではクヌートの生涯についてほとんど知られていなかった。それは何十年にもわたって繰り広げられ続いたヴァイキング の襲撃が最高潮を迎えた時期でもあった。ハンバー川 に上陸後[ 22] 、イングランド王国は急速にヴァイキングの手に落ちていき、その年末ごろにエゼルレッド2世 はイングランドを占拠したスヴェンを残しノルマンディー へ逃れた。その冬のスヴェンは自らの王権を強化する過程にあり、クヌートは艦隊 とゲインズバラ (英語版 ) の軍事拠点の管理を任された。
数ヵ月後の聖燭祭 の日(1014年 2月3日 日曜日)にスヴェンが死去すると[ 23] 、クヌートの兄ハーラル2世 がデンマーク王としてスヴェンの後を継いだ一方、ヴァイキングやデーンロウ の民衆らも間もなくクヌートをイングランド王として選出した[ 24] 。しかし、イングランド貴族 の考えはそれらとは異なっており、賢人会議 はエゼルレッドをノルマンディーから呼び戻した。復位した王は直ちに軍を率いてクヌートに対抗した。クヌートは自軍とともにデンマークへ逃れる道中、人質の手足を切断してサンドウィッチ の浜辺に置き去りにした。クヌートはハーラルのもとへ向かい、彼らが共同の王位を有する可能性があるとおそらく提案したようだが、これが兄の好意的な姿勢を得ることはなかった[ 24] 。ハーラルはイングランド再侵攻の指揮権をクヌートに与えたと考えられているが、その条件として彼がその主張を強要し続けないこととした[ 24] 。いずれにせよ、クヌートは大規模な艦隊を招集して新たな侵略の開始に成功した。
イングランド征服
Alliというヴァイキングを記念したルーン石碑 「U 194」には、彼が「イングランドでKnútr (クヌート) の報酬を獲得した」とある。
デンマークの同盟国の中には、ポーランド公(後に王位についた)でありデンマーク王家の親戚ボレスワフ1世がいた。彼はポーランド軍の一部を貸与したが、これはその冬にクヌートとハーラルが母親のグンヒルをデンマークの宮廷に連れ帰るため「ヴェンド人と一緒に行った」時にかわした約束であったと考えられる。995年のエリク6世の死およびスウェーデン王太后シグリーズとスヴェンの結婚後、グンヒルはスヴェンにより追い出されていた。この結婚は、スウェーデンの王位継承者であるオーロフと、彼の姻戚であるデンマーク君主らとの間に強力な同盟関係を形成した。スウェーデン人は確かにイングランド征服の協力者であった。デンマーク王家のもう1人の姻戚エイリーク・ハーコナルソン はラーデのヤール であり、弟のスヴェイン・ハーコナルソン とともにノルウェーの共同統治者であった。ノルウェーは999年 のスヴォルドの海戦 以来、デンマークの主権下にあった。エイリークがこの征服戦争に参加したことで、彼の息子ハーコンがスヴェインとともにノルウェー統治を任された。
1015年 の夏、クヌート艦隊は推定1万人のデンマーク軍と共に200隻の艦船でイングランドに向け出航した。彼はスカンディナヴィア中のヴァイキング軍団の指揮官であった。侵攻軍は主に傭兵で構成されていた[ 27] 。侵攻軍はその後14ヵ月間、イングランド軍としばし凄惨な接戦を繰り広げた。実質的にすべての戦闘は、エゼルレッドの長男エドマンド2世 とのものであった。
ウェセックス上陸
『アングロサクソン年代記 』の主要な証拠でもあるピーターバラ年代記 (英語版 ) の写本によれば、1015年9月初旬に「クヌートはサンドウィッチに入り、すぐにケント を回ってウェセックス王国 に出帆し、ついにフロム川 (英語版 ) の河口まで来てドーセット 、ウィルトシャー 、サマセット に侵入した」とあり[ 28] 、アルフレッド大王 の時代以来見られなかった激烈な戦役が始まった。『王妃エマ讃』の一節には、クヌート艦隊の描写について次のようにある。
多様な種類の盾があったため、あらゆる国の軍隊が集まっていると思われるほどであった。... 船首には金が、様々な形の船には銀も輝いていた。金の輝きで恐ろしい敵のライオンを見て、金の顔で威嚇する金属の男達を見て、...船上で死を迫る角が金に輝く雄牛を見て、そのような力の王に対し何の恐れも感じない者がいるだろうか?さらに、この大遠征には、奴隷も、奴隷から解放された者も、生まれの貧しい者も、年老いて弱った者もいなかった。全ての者が高貴で、成熟した年齢で力強く、あらゆる種類の戦に十分に対応でき、騎兵の速度を嘲笑うほどの優れた機動性を持っていた。
アルフレッドとエゼルレッドの王朝に長く支配されていたウェセックスは1015年末、その2年前にスヴェンに屈服したように、クヌートに服従した。
この際、マーシア伯爵 であったエアドリック・ストレオナ (英語版 ) が40隻の船とその乗員らと共にエゼルレッド軍を脱し、クヌート陣営に加勢した[ 30] 。もう一人の亡命者は、スヴェンによるヴァイキング侵略に抗戦したヨムスヴァイキング首領であったトルケルで、1012年にイングランドに忠誠を誓った── 『ヨムスヴァイキングのサガ (英語版 ) 』の一節には、ヨムスボルグの傭兵がイングランド滞在中に2度の攻撃を受け、トルケルの兄弟であるHenningeという人物が犠牲になったという記述があり、このような忠誠心の変化の説明が見受けられる。
仮に『フラート島本』が正しく、トルケルがクヌートの少年時代の庇護者であったとすれば、彼がトルケルの忠誠、究極にはヨムスボルグのヨムスヴァイキングを受け入れたことにも説明がつく。エアドリックと来た40隻の船は、デーンロウの船と考えられることもあるが、おそらくはトルケルの船とされる。
北進
1016年初頭、ヴァイキングはテムズ川 を渡河してウォリックシャー に襲撃したが、エドマンドの反撃の企図は失敗に終わったようである──年代記の著者は、イングランド軍が解散したのは、エドマンド王とロンドン 市民が不在だったためだとしている。クヌートによる真冬の襲撃は、マーシア東部を北上しながら壊滅的な打撃を与えていった。また、軍の召集によりイングランド人が集められ、今度は王が彼らを出迎えたが、「それまでに何度もあったように無駄に終わった」ため、エゼルレッドは謀反の不安を抱えながらロンドンに戻った。その後、エドマンドは北上してノーサンブリア伯爵 (英語版 ) のウートレッド (英語版 ) と合流し、マーシア西部のスタッフォードシャー 、シュロップシャー 、チェシャー に侵略した。おそらくエアドリックの領地を狙ったとされる。クヌートのノーサンブリア占領はウートレッドが帰国しクヌートに服従したことを意味したが[ 34] 、クヌートはウートレッドとその従者を虐殺させるため、ノーサンブリアの敵対者であるサーブランド (英語版 ) を派遣したと見られている。エイリーク・ハーコナルソンは、おそらくスカンディナヴィア人のもう一つの部隊と共に、この時点でクヌートを支援するようになり、熟達したノルウェーのヤール がノーサンブリアの統治を担った。
エドマンド王子は、ロンドン・ウォール に囲まれたその都市に留まり、1016年4月23日のエゼルレッドの死後、王に選出された。
ロンドン包囲
エドマンド2世(左)とクヌート1世(右)が描かれた中世の彩飾。マシュー・パリス (英語版 ) の『大年代記 (英語版 ) (Chronica Majora)』より
クヌートは南下し、デーン軍はどうやら複数に分かれた。一部は、クヌートによるロンドン包囲完了前にロンドンを脱してイングランド王政の伝統的中心地であるウェセックスに軍を集めに行ったエドマンドに対処し、また一部は、ロンドンを包囲して北側と南側に堤防を築き、川上の連絡を断つためにテムズ川の土手にロングシップ のための水路を市の南側に掘った。
サマセットのペンセルウッド (英語版 ) で行われた戦いは、セルウッドの森 (英語版 ) にある丘がその場所とされており、その後にウィルトシャーのシェーストン (英語版 ) で行われた戦いは二日間に及んだが、エドマンド軍はどちらにも勝利することはできなかったとされている[ 36] 。
エドマンドはロンドンを一時的に救い、敵を追い払ってブレントフォード でテムズ川を渡った後に彼等を撃破した(ブレントフォードの戦い )。大きな損失を被った彼は、新たな兵力を集めるためにウェセックスに退却し、デーン人は再びロンドンを包囲したがまたもや攻撃に失敗し、イングランド人の攻撃を受けてケントに後退し、オットフォード (英語版 ) で戦った。この時点でエアドリックはエドマンドのもとに渡り[ 37] 、クヌートはテムズ川河口を北上してエセックスに出帆し、上陸地からオーウェル川 (英語版 ) を遡ってマーシアを荒らし回った。
条約によるロンドン獲得
1016年10月18日、デーン人が船に向かい退却する際にエドマンド軍と交戦し、エセックス南東のアシンドン (英語版 ) 、または同北西のアシュドン (英語版 ) にて展開されたアッサンダンの戦い (英語版 ) という結果につながった。続くその戦闘にて、イングランド側に戻っていたエアドリックは、おそらくその策略から軍を撤退させ、イングランドに決定的敗北をもたらした[ 38] 。エドマンドは西に逃れ、クヌートはグロスタシャー まで追走したが、エドマンドはウェールズ人 の一部と同盟を結んでいたため、ディーンの森 (英語版 ) 付近で別の戦闘があったとされる。
クヌートとエドマンドはディアハースト (英語版 ) 近くの島で和平交渉のための会合を開いた。テムズ川より北側のイングランドはデンマーク王子の領地とし、南側はロンドンとともにイングランド王の領地とすることで合意された。全領域の統治権は、エドマンドの死後、クヌートに引き継がれることになっていた。エドマンドはこの合意から数週間以内の11月30日に死亡した。エドマンドは殺害されたと主張する史料もあるが、その死亡時の状況は不明である[ 39] 。西サクソン人はクヌートを全イングランドの王として受け入れ、彼は1017年のロンドンにて、カンタベリー大主教 のリーフィング (英語版 ) によって戴冠 された。
イングランド王
クヌートはほぼ20年間にわたってイングランドを治めた。彼がヴァイキングの攻撃——その多くは彼の指揮下にあった——に対して与えた保護が、980年代にヴァイキングの襲撃が再開されて以来、ますます損なわれていた繁栄を回復させた。同様にイングランド人は、彼がスカンディナヴィアの大部分の支配を確立するための手助けもした。彼の支配下のイングランドは、外部からの深刻な襲撃に遭うことはなかった[ 43] 。
デーンゲルドと権力強化
デーン人のイングランド王としてのクヌートは、強大なウェセックス王朝の生き残りからの、予想される抵抗を素早く排除した。彼の治世の初年には、彼が疑わしいと考えた多くのイングランド貴族が処刑された。エゼルレッドの息子エドウィ・アシリング (英語版 ) はイングランドから逃れたが、クヌートの命令で殺された[ 44] 。エドマンドの息子達も同様に国外に逃亡した。エゼルレッドとエマ・オブ・ノーマンディーの息子達は、ノルマンディー公国 の親族の保護を受けた。
1017年7月、クヌートはエゼルレッドの未亡人にしてノルマンディー公リシャール1世 の娘であるエマ・オブ・ノーマンディーと結婚した。エマとの結婚には、悪化していたデーン人とノルマンディー公国の関係を修復する意味も含まれていた。 1018年、全国で徴収し7万2千ポンドに達した総額に加え、ロンドンで徴収した1万5百ポンドという莫大な額のデーンゲルド (英語版 ) を集金したクヌートは、軍隊に賃金を払って解雇し、彼らのほとんどを帰国させた。彼は40隻の船とその乗組員をイングランドの常備軍 として保持した。エゼルレッドが1012年に、彼に仕えたスカンディナヴィア人らに見返りを与えるために制定したものと同じシステムを利用し、heregeld (軍隊への給与) と呼ばれる年税が徴収された。
クヌートは、複数のシャイア が1人のエアルドルマン (英語版 ) の下にまとめられるという既存のイングランドの傾向に基づいて、イングランドを4つの大きな行政単位に分割し、その地理的範囲は、イングランド統一に先立つ独立した諸王国の中で最も大きく、かつ耐久性のあるものを基準とした。これらの領地を担当する役人はen:Earl [ 注 3] に指名された。ウェセックスは当初クヌートの個人的な支配下に置かれた一方、ノーサンブリアはエイリーク・ハーコナルソンに、イースト・アングリア はトルケルに、マーシアはエアドリックの管理下に委ねられた。
この最初の権力配分は長くは続かなかった。慢性的に不誠実であったエアドリックは、クヌートの即位後1年以内に処刑された[ 44] 。マーシアはその地の有力な家系の一つに引き渡され、最初はおそらく、エゼルレッドの下でウィッチェ のエアルドルマンであったレオフウィン (英語版 ) に、そしてすぐに彼の息子のレオフリック (英語版 ) に受け継がれたとされる。1021年にはトルケルが失墜し追放された。1030年代までにはクヌートによるウェセックスの直接統治が終わると共に、サセックス の豪族出身のイングランド人ゴドウィン の下に伯爵の地位が置かれた。一般的に、治世の最初の数年間はスカンディナヴィア人の家臣に頼っていたが、のちにクヌートは、彼の信頼を得た既存のイングランド貴族のアングロサクソン系一族に、伯爵領の統治を担うことを認めた。斯くしてクヌートは、侵略者として弾圧するよりも現地の貴族等と協力した統治を進めた。
東方の情勢
クヌートの肖像が彫られた硬貨。大英博物館 所蔵。
1016年のネシャールの海戦 (英語版 ) にて、オーラヴ2世 はデーン人からノルウェー王国 (英語版 ) を勝ち取った。エイリーク・ハーコナルソンがイングランドに発ってからしばらくして、スウェーデンに退却していたスヴェンが死亡した時、おそらくノルウェーに援軍を連れて戻るつもりだったとされるが、エイリークの息子ハーコン・エイリークソン も彼に同行してイングランドでクヌートを支援した。
クヌートの兄ハーラルは、1016年のクヌートの戴冠式に出席し、その後のある時点で艦隊の一部と共にデンマーク王として帰国したのかもしれない。1018年にカンタベリー大聖堂 と共にあった協会にて、クヌートのものと並んで彼の名前が記されたことのみは確かである。これは決定的なものではない。というのも、その記入はハーラルが不在の間に、おそらくクヌート自身の手によって行われた可能性がある。つまり、大抵の場合ハーラルは1018年に死亡したと考えられており、この時点で彼が生きていたかどうかは明らかではない。カンタベリーのコデックス に義兄の名を記載したことは、ハーラル殺害への報復を教会に有利にするための、クヌートの企図だったのかもしれない。これは、魂が神の加護の下にあることを示す単なるジェスチャーだったのかもしれない。
イングランドとデンマーク、どちらの海岸であったかは不明だが、1018年にクヌートが「海賊」と戦い、30隻の船の乗組員を殺害したという証拠がある[ 51] 。イングランドとデンマークの王として書かれた1019年の手簡(デンマーク発イングランド宛)にて、彼自身は騒動について触れている。これらの出来事は、尤もらしく、ハーラルの死と関連していると見られる。クヌートは、デンマークがイングランドを確実に、自由に援助できるよう反対派に対処したと述べている。
クヌート王がイングランドの大主教、教区司教、Thurkil伯、全伯爵、…聖職者、そして信者に対し友好の挨拶をする…余は慈悲深い領主であり、神の道理と世俗の法の忠実な順守者になることを告げる。神の道理…そして民衆の利益 (の維持にて司教らを支援するようエアルドルマンらに説き勧める)。
もし聖職者であれ平信者であれ、デーン人であれイングランド人であれ、誰かが神の法と余の王権、あるいは世俗の法に僭越にも背いた場合、余の司教らの指示に従って改心し止めようとしなければ、余は祈り、また可能であればThurkil伯に命じ、悪事を働く者に正しい行いをさせるようにする。もしその者ができなければ、その時は余の意志として、我等二人の力で、身分の高低を問わず、その者をこの地で滅ぼし、あるいは追い出すことにする。そして、余の意志は、全ての国民、聖職者と平信者が、オックスフォードで選び誓ったエドガー の法律を、堅実に守ることである。
余は金を惜しまなかった故、敵意が諸君らを脅かしていた限り、神の助けを得てそれに終止符を打った。その時、我等が好んだよりも大きな危機が迫っていることを余は知らされた。その後、余は同行した者らと共に、最大の被害を受けたデンマークに赴き、神の助けを得て、諸君が余を正当に支援し、余の命が続く限り、今後決して向こうから敵意が届くことのないようにした。今、余は全能の神の助けと慈悲に感謝しており、我等に迫っていた大きな危機を余が鎮めた故、そこからの脅威を恐れる必要はないが、もし必要であれば、万全の助けと救済を期待できるだろう。
政治的手腕
クヌートは一般的に、賢明で成功を収めたイングランド王として記憶されているが、こう思われる一因として、歴史的記録物の保持者である教会 の処遇が良かったことが一因と考えられている。その結果、2人の妻と明らかに罪深い関係 にあったにもかかわらず、また、敵対者とはいえ同じキリスト教徒 に厳しい仕打ちをしていたにもかかわらず、今日でも宗教心のある人物として、彼の話を聞く。彼は教会税を納めさせ、聖職者達と共にデーン人に対してキリスト教改宗を促していた。
彼の治世にて、クヌートはイングランド人とデーン人の王国をまとめ上げ、スカンディナヴィアとサクソンの人々は、スカンディナヴィア全域及びブリテン諸島内で優位な時代を迎えた。彼の下では、アングロサクソン人とデーン人は等しい地位にあったのである。彼の海外での軍事作戦により、ヴァイキングの支配権はイングランドに有利な状況となり、ロングシップの舳先はスカンディナヴィアに向けられることになった。彼はデーンロウの憲法とスカンディナヴィア人の活動を全般的に認めるため、エドガー王の法律を復活させた。この法律の引き継ぎには、正統なイングランド王と認めてもらいたいというクヌート自身の思惑や、彼がウェセックス家 の後任であることを知らしめる目的もあった。
クヌートは、現存する法律を復活させ、彼の目に留まった民衆の苦情を解消するために一連の布告を出し、その中には、「無遺言死亡 の場合の相続 について」や「ヘリオット (英語版 ) と相続上納金について」などが含まれた。彼は、I CnutとII Cnutの二部から構成されるクヌート法典 (英語版 ) を公布したが、これらは主にヨーク大主教のウルフスタン (英語版 ) が作成したものと見られている。
デンマーク王
ローマへの旅程
クヌートの肖像が彫られた硬貨。大英博物館 収蔵。
スカンディナヴィアの敵が服従し、どうやら時間的余裕ができたと見られるクヌートは、ローマで神聖ローマ皇帝コンラート2世 の即位式を観る招待を受けることができた。彼は北部での情勢を後にして、デンマークから1027年の復活祭 に開かれた戴冠式に臨んだ——中世ヨーロッパの支配者らにとって、キリスト教世界 (英語版 ) の中心地への巡礼は注目に値する敬意であった。帰路での彼は、1019年の時と同様に手簡を出し、イングランドの家臣に国外から彼の意思を伝え、自らを「全イングランドとデンマーク、ノルウェー人、そしてスウェーデン人の一部の王」と宣言した。
キリスト教徒の王としてクヌートの役割に相応しく、クヌートはローマに行き、自分の罪を悔い、贖罪と家臣の安全を祈り、イングランドの大司教のパリウム の費用を減らすため、そしてカンタベリーとハンブルク・ブレーメン (英語版 ) 大司教区がデンマークの大司教区に対する優位性を競うことを解決するために、教皇と交渉した。また、ローマへの道中の巡礼者や商人を取り巻く状況の改善も依頼した。彼自身の言葉では以下のように表現されている。
...余は皇帝、教皇、そしてそこにいる王子達と、余の王国全土の全ての人々、イングランド人とデーン人双方へ、ローマへの途上にて、より公正な法律と安全な平和が与えられ、彼等が道中の多くの障壁によって制限されたり、不当な通行料によって悩まされたりしないようにという要求についての話をした。皇帝は同意し、料金所のほとんどを管理するロベール王も同様であった。そして、全ての有力者達は、余の民、商人と信仰のために旅をする人々の双方が、障壁や通行料の徴収者に悩まされることなく、確固たる平和と公正な法のもとにローマに行き、帰ってくるという勅令に基づいて確認した。
クヌートの文書に出てくるロベール王 (King Robert) は、恐らく独立したブルグント王国 最後の君主であったルドルフ3世 (Rudolph) の誤記とされる。それゆえ、教皇、皇帝、ルドルフの厳粛な言葉は、4人の大司教、20人の司教、そして「数え切れない程多くの公爵や貴族」の立会人と共に伝えられたが、それは式典が完了する前だったことを示唆している。クヌートは自分の役割に熱意を持ち、疑いなく心身を打ち込んだ。公正なキリスト教の王、政治家、外交官、不正に対抗する活動家としての彼のイメージは、現実に根差したものであったと同時に、彼が与えようとしたものでもあったと見られる。
ヨーロッパ内での彼の地位を示す好例は、クヌートとブルグント王 が皇帝の列に横付けし、同じ台座の上に肩を並べて立ったという事実である。クヌートと皇帝は、様々な資料によると、年齢が近いこともあり、兄弟のように互いに付き合っていたという。コンラートはクヌートに、友好条約の証としてシュレースヴィヒ公国 のマーチ (領土) (英語版 ) ——スカンディナヴィア人の諸王国と大陸との間に架けられた陸橋を割譲した。この地域で何世紀にも及んだデーン人とゲルマン人の衝突は、バルト海の入江であるシュライ湾 のシュレースヴィヒから北海にかけて、ダーネヴィアケ (英語版 ) の建設の原因となった。
ローマへのクヌート訪問は大成功だった。Knútsdrápaの詩にて、作者のシグヴァト・ソルザルソン (英語版 ) は「皇帝にとって重要であり、ペテロと親密であり」と自らの王であるクヌートを称賛している。キリスト教世界の時代では、神に好かれているとされる王は、幸せな王国の支配者となることを期待された。教会や民衆とだけでなく、南の対立者との同盟により、北の敵対者との紛争を終わらせることができ、彼がより強い立場にあったのは確かである。彼の手簡は同国人に、ローマでの成果だけでなく、帰国後のスカンディナヴィア世界での野望も以下のように伝えている。
... 余は出発した時と同じ道で戻り、デンマークに行き、全デーン人の助言のもとに、可能なら我等から命と支配を奪いたかったが、神が彼等の力を破壊したことでそれができなかった民族や人々と、和平の調停と確固たる条約を結ぶために赴くことを、皆に知ってほしい。彼の寛大な慈悲により、我等を支配と名誉のうちに保ち、以後、我等の全ての敵の権威と力を散らし、無にして下さることを!そして最後に、周囲の人々との和平が取り極められ、ここ東にある王国が全て適切に整い鎮まり、どの方面からの戦争、あるいは個人の敵意も恐れないようになった時、余は今夏の可能な限り早い時期にイングランドに参上し、艦隊の装備に注視する所存である。
—1027年のクヌートの手簡より
クヌートはローマからデンマークに戻り、デンマークの安全保障を整えた後、イングランドに向けて出航することになっていた。
ノルウェーおよびスウェーデン王
1027年のクヌートの書簡にて、彼は「ノルウェー人、そして一部のスウェーデン人」の王として自らについて言及している。クヌートはスカンディナヴィア諸王国の平和を保障すべくデンマークへ向かう意図について述べており、これは1027年のクヌートが一部のノルウェー人が不満を持っていると聞き、彼の王位の主張への支持を得るため彼らに金銀を送ったというウスターのジョン (英語版 ) の記述と一致する。
1028年、彼がデンマーク経由でローマから帰国すると、イングランドからノルウェーのトロンハイムに向け、50隻の艦隊を率いて発った。ノルウェーの貴族らはクヌートから賄賂を受けていたことと、(ブレーメンのアダムによると)ノルウェー王オーラヴ2世 が魔術のために貴族らの妻を捕らえることがあったため貴族は王に味方せず、オーラヴ2世はいかなる抵抗もできずに身を退いた[ 65] 。こうしてクヌートは現在のデンマーク、イングランド、ノルウェー、そしてスウェーデンの一部の王となった。クヌートはラーデ伯領 を、かつてラーデのヤール であったエイリーク・ハーコナルソン の息子ハーコン・エイリークソン に与えた。ハーコンは恐らくエイリークの後を継いでノーサンブリア伯でもあった。
独立したノルウェーの王たちを敵視してきた長い伝統を持つ一族の一員であり、クヌートの親戚でもあるハーコン・エイリークソンは、1016年から1017年にかけてすでに島々やウスター伯領の領主となっていたとされる。アイリッシュ海 、およびオークニー諸島 やノルウェーへつながるヘブリディーズ諸島 のシーレーン は、スカンディナヴィア半島 とブリテン諸島 の支配を得るというクヌートの野心の中枢であった。ハーコンはこの戦略的な鎖におけるクヌートの副官となり、1028年のオーラヴ追放後の最後の構成要素は、ノルウェーにて彼が国王代理として任命されたことであった。しかし不運なことに、1029年末あるいは1030年初頭、彼はペントランド海峡 にて船が沈没したことで溺死した。
ハーコン・エイリークソンの死後、オーラヴ2世はスウェーデン人を従えた軍勢とともにノルウェーへ戻ったが、スティクレスタドの戦い (英語版 ) にてクヌートと手を結んだノルウェー豪族に敗れ戦死した。王妃エルフギフとその長男スヴェンを通じた、ラーデのヤール の支援を欠いた状態でのクヌートによるノルウェー支配の次なる目論見は失敗した。ノルウェーにおいてその時期は、重税と反乱、そして前王オーラヴ2世の非嫡出子であったマグヌス1世 の王朝(ホールファグレ朝 )の復活という「エルフギフの時代(Aelfgifu's Time)」として知られている。
西の海路への影響
1014年、クヌートがイングランドへの再侵攻を準備していた頃、クロンターフの戦い (英語版 ) では、ダブリン の防壁前の戦地に展開した軍の隊列が戦っていた。レンスター の王モール・モルダ (英語版 ) と、ダブリン王国のノース系ゲール人の君主シグトライグ (英語版 ) は、アイルランド上王 のブライアン・ボル に対する反乱への支援を要請するために、全てのヴァイキング王国に使者を派遣した。オークニー伯爵 (英語版 ) のシグルド・フロドヴィルソン (英語版 ) がノース人の全軍の指揮を任された一方、上王はマー伯爵 のドムナル (英語版 ) が率いたスコットランド人 からの支援を求めた。レンスターとノース人の同盟軍は撃破され、両軍の司令官だったモールとシグルドは戦死した。ブライアンと彼の息子、孫、ドムナルも同様に殺された。シグトライグは生存したが彼の同盟は破棄され、アイルランドの上王権は再びモール・セックネール (英語版 ) のイー・ネイール朝 (英語版 ) に戻った[ 22] 。
ダブリンのヴァイキング達にとって、アイリッシュ海海域での自由な時代は短く、北大西洋島嶼部の西海域全体に政治的空白 の兆しがあった。その空白を埋めるため向かった彼等の中で突出していたのが、「スカンディナヴィア世界の統率力が西方の植民地に独特の影響力をもたらし、商業動脈の管理が政治的支配に経済的優位性を与えた」クヌートであった。ダブリン王のシグトライグにより鋳造された硬貨には、クヌートの四葉型があり——1017年から25年頃に発行された——散発的に彼の名前が入った銘に置き換えられ、「ダブリンの」または「アイルランド人の」支配者として称されていることから、クヌートの影響の証拠を提供する[ 71] 。更なる根拠は、クヌートの勅許の三つのうちの一つSihtric duxの印字である[ 72] 。
クヌートの宮廷詩人シグヴァト・ソルザルソンは、その詩の中で、高名な王子達がクヌートのもとに自らの首を差し出して和平を買ったことを物語っている。この詩ではオーラヴを過去時制にて触れているが、彼がスティクレスタッドの戦いで死亡したのは1030年であった。それ故、これとノルウェーを統合した後のある時点で、クヌートは1031年に軍隊とアイリッシュ海の海軍と共に、スコットランドに赴き、スコットランドの3人の王、マルカム2世とその後王位に就いたマクベス 、Iehmarcの降伏を無血で受け入れた。三名のうちのIehmarcは、ギャロウェイ (英語版 ) を領地とするイヴァル朝 (英語版 ) の酋長にして、アイリッシュ海の海上王国の支配者であったen:Echmarcach mac Ragnaill とされる。このような次第ではあるが、マルコムはクヌートの支配権をほとんど忠実に守らなかったようで、クヌートの死亡時までにはスコットランドへの影響力は消滅した[ 12] 。
教会との関係
ウィンチェスターのハイド修道院 (英語版 ) にクヌートが巨大な黄金の十字架を贈ったことで、天使がクヌート (右下) に王冠を授けている。左下は王妃エルフギフ、上段は左から順に聖母マリア 、イエス・キリスト 、ペトロ を表す。大英図書館 収蔵の『生命の書 (Liber Vitae ) 』より。
征服者としてのクヌートの行動と、転覆した王朝に対する冷酷な仕打ちは、教会との関係に彼に不安を抱かせた。スカンディナヴィアのキリスト教化 は全く達成されていなかったが、彼は王である前からキリスト教徒であった——洗礼 の際にランバート (Lambert) と名付けられた[ 76] 。彼は既にエルフギフと結婚していたが、エクセター の私有地の南部に取り籠められていたエマとの婚姻は、教会の教義に対する新たな確執であった。教会関係者と和解する努力をしようと、クヌートはヴァイキングの略奪の犠牲となったイングランドの教会や修道院を全て修復し、財源を補填した。また、彼は新しい教会を建設し、修道会社会の熱心な擁護者でもあった。彼の故郷デンマークは、キリスト教国として台頭してきており、宗教を増進しようとする欲求がまだ新鮮だった。例えば、スカンディナヴィアで最初に建てられたと記録された石造りの教会は、1027年頃のロスキレ にてであり、その後援者はクヌートの妹エストリズ・スヴェンスダッタ だった。
クヌートの教会に対する姿勢が、深い宗教的信仰心に由来するのか、又は単に政権の民衆への支配力を強化するための手段だったのかを突き止めるのは難しい。オーラヴ2世のように、ヴァイキングの指導者達はキリスト教の教えの厳格な順守にこだわったが、クヌートのスカルド詩が北欧神話 を飾り立てることに彼は十分満足したという、彼を賛美する詩の中には異教を尊重していた証拠がある。しかし、彼はまた、ヨーロッパの中で立派なキリスト教国家でありたいとの願望を表している。1018年、リーフィングがローマから戻った時に、教皇から激励の手簡を受け取るためにクヌートはカンタベリーにいたとする史料もある。この年代記が正しければ、恐らく彼はカンタベリーからオックスフォードでの賢人会議に行き、この出来事を記録するためヨークの大司教ウルフスタンも同席したと見られる。
彼のキリスト教世界に対する贈り物は広範囲に及び、しばしば豊かであった。一般的には土地が与えられ、税金が免除され、聖遺物 も与えられた。カンタベリー教会は、重要な港であるサンドウィッチの利権と免税措置を付与され、祭壇の上に憲章を置くことを確認すると共に、ロンドン市民の不満を買いつつエルフェージ (英語版 ) の聖遺物を入手した。王の厚遇を受けたもう一つの司教区はウィンチェスターであり、財政面においてカンタベリーに次いでいた。ニュー・ミンスター (英語版 ) の『生命の書 (英語版 ) 』 (Liver Vitae) はクヌートを僧院の後援者として記録しており、銀500マーク や金30マルク、様々な聖人の遺物[ 85] と共にウィンチェスターの十字架が贈られた。オールド・ミンスター (英語版 ) は聖ビリヌス (英語版 ) の遺物のための聖堂の受領者であり、おそらくその特権の堅信礼であった。イヴシャム Eveshamの大修道院長エルフワード Ælfweardは、エルフギフ夫人 (エマ女王よりはおそらくエルフギフ・オブ・ノーサンプトン) を通じた王の親戚だと言われており、聖ウィグスタン (英語版 ) の聖遺物を得た。彼のスカルド詩が「宝物を破壊している」とした、このような廷臣への気前の良さは、イングランド人には人気があった。しかし、全てのイングランド人が彼を支持したわけではないことへの留意は肝要であり、税金の負担は大いに感じられていた。彼のロンドンの教区に対する態度は、明らかに穏やかなものではなかった。イーリー やグラストンベリー の修道院との関係も良好ではなかったようである。
近隣の国々にも様々な贈り物が与えられた。その中には、シャルトル に贈られたものもあり、その司教は次のように書いている。「貴殿が送ってくれた贈り物を見て、我々はその知識と信仰に驚きました...異教の王子と聞いていた貴殿が、キリスト教徒であるだけでなく、神の教会や奉仕者に最も手厚い寄付をしていることが分かりましたから。」クヌートはピーターバラ で作られたソルター やサクラメンタリー (英語版 ) をケルン に贈り、金で記された書物やその他の贈呈品はアキテーヌ地域圏 のギヨーム5世 に贈られた。この金の書物は、アキテーヌの守護聖人聖マーシャル (英語版 ) を使徒 とする、アキテーヌ住民の主張を支持するものだったとされる。ある程度の帰結として、その受領者は熱心な職人であり、学者であり、敬虔なキリスト教徒であり、そして聖マーシャル修道院 (英語版 ) は、クリュニー の修道院に次ぐ偉大な図書館 かつ写字室 でもあった。クヌートの贈呈品は、今日知ることが出来る以上のものであることも有り得る。
クヌートの1027年のローマへの旅路は、キリスト教に対する彼の献身の別の証である。彼は二大国間の関係を強化するために、コンラート2世の戴冠式に出席したのかもしれないが、彼はかねてより天界の鍵を持つペトロ の寵愛の追求を誓っていた。ローマ訪問中のクヌートは、イングランドの大司教達がパリウムを受領するために彼らにより支払われる代金を減額するための協定を、教皇と結んだ。また、自国からの巡礼者が不当な通行料により制限されぬよう、尚且つ、彼らのローマへの往復路が保護されるよう彼は手配した。1030年に2度目の巡礼旅行をしたという証拠もいくつか存在する。
クヌートの死と後継
クヌートは1035年11月12日 に死去した。デンマークではハーデクヌーズが後を継いでクヌート3世として支配したが、スカンディナヴィアにてノルウェーのマグヌス1世と交戦中でありながら、ハーデクヌーズは「デンマークに長く滞在しすぎたためイングランド人に見捨てられた」[ 93] 。その後ウェセックス家 が再び君臨するようになったのは、エドワード懺悔王 がノルマンディーに亡命していたところを連れ出され、彼の異母兄弟であるハーデクヌーズと条約を結んだためである。クヌートの死後に起きた紛糾の中、ゴドウィンはアルフレッドを暗殺し、アルフレッドの弟エドワードは賢人会議での合意を得て即位させられた。
クヌートの息子たちが彼の死から10年以内に死亡していなければ、また、彼の死の8ヵ月後にコンラート2世の息子ハインリヒ3世と結婚した唯一の娘グンヒルが、神聖ローマ帝国の皇后になる前にイタリアで死亡していなければ、クヌートの治世はイングランド・スカンディナヴィア間の完全な政治連合、そして神聖ローマ帝国と血縁関係のある北海帝国の基礎となっていたかもしれない。
ウィンチェスターの遺骨
クヌートは現在のドーセット州 シャフツベリー (英語版 ) にて死亡し、オールド・ミンスター (英語版 ) に埋葬された。1066年 のノルマン・コンクエスト を契機に、ノルマンディーの新政権 は中世盛期 の壮大な大聖堂 や城 の野心的な計画を立て、その到来を知らせようとしていた。ウィンチェスター大聖堂 はアングロ・サクソンの跡地に建設され、クヌートの遺品を含む以前の埋葬品はそこの安置箱に納められた。17世紀 のイングランド内戦 時には、円頂党 の略奪兵らがクヌートの骨を床に撒き散らしたため、ウィリアム2世 の箱をはじめとする他の様々な箱のなかに散逸してしまった。イングランド王政復古 の後、他の骨と多少混ざってしまったものの骨は集められて箱の中に戻された[ 98] 。
クヌートと波の説話
クヌートと波の説話 (英語:King Canute and the tide)とは、12世紀 の歴史家 であるヘンリー・オブ・ハンティングドン によって記された、クヌートの信心または謙遜に関する創作された逸話 である。
彼は世辞を述べる臣下らに対して自然の力(迫り来る潮汐 )をコントロールできないことを明示し、世俗的な力は神 の全能 の力の前では無力だと説明している。この逸話は、避けられない出来事の「潮流を止めようとすること」の無益さを指摘する文脈にて頻繁に暗示されているが、大抵の場合はクヌートが超自然的な力を持つと自ら信じていると偽って伝えられており、ハンティングドンの話と実際には逆のことを物語っている。
逸話
アルフォンス・ド・ヌヴィル による絵画Canute Rebukes His Courtiers 。
ハンティングドンは、クヌートの「優美で高尚な」行動の3つの例のうちの1つとしてこの物語を語っており(戦場での勇敢な行動は除く)[ 注 4] 、他の2つは後の神聖ローマ皇帝と娘との結婚を手配したこと、そして1027年の皇帝戴冠式に際したローマへのガリア横断道路(アルル王国 )の通行料引き下げ交渉である。
ハンティングドンの記述では、クヌートは海岸 に玉座を置き、潮に対して彼の足と衣を濡らさないよう命じたという。しかし、「常のごとく上昇し続ける潮は、王であるその方に敬意を払わず御御足に塩水を浴びせた。そして王は後ろに跳び退きこう仰った。『すべての者に王の力がいかに無力で無価値であるかを知らしめよ。天と地と海が不変の法則に従う神をおいて、その名に相応しい者は誰もいないからだ』」。彼は十字架像 に自らの金の王冠 を掛け、「全能の王たる神の敬意に対して」二度とそれを被ることはなかった[ 99] 。
後世の歴史家らはこの説話を繰り返し伝え、彼らの多くはクヌートに潮汐が従わないことをより明確に認識させるよう脚色し、彼の臣下らの世辞を訓戒するためにその場面を演出した。潮に命じた者ら、すなわちグラモーガン (英語版 ) の聖イルトゥード (英語版 ) 、グゥイネッズ王国 (英語版 ) の王マエルグン (英語版 ) 、ブルターニュ のトゥイルベ(Tuirbe)などのケルト人 の説話においても草創期の類似点がみられる[ 100] 。
諺に用いられる言及
現代のジャーナリズム または政治学 におけるこの伝説へのよく知られた言及は大抵、「潮を止めようとすること」の「クヌートの傲慢さ」という観点から説話を引用する。しかし用法については、エコノミスト誌 のスタイルガイドに次のようにある。
海辺でのクヌートの実演は、彼は真実であると知っていたが臣下が疑っていたこと、すなわち彼が全能ではないことを彼らに納得させるために計画された。彼が足を濡らし驚いたと仄かしてはならない
この説話は例えば、2005年 のハリケーン・カトリーナ へのニューオーリンズ 市議会の対応を象徴するものとしてスタシー・ヘッド (英語版 ) によって、また、2011年 の英国のプライバシー差し止め論争 (英語版 ) において、インターネット上の「止むことのない情報の流れ」を止めようとしたライアン・ギグス の試みについて「フットボール 界のクヌート王」として彼に言及したマーク・ステファンズ (英語版 ) などによって引用された。これらやその他多くの通俗的説明は、クヌートがまさにそうした自然の力を操れないことと、神のより大きな権威への敬意を示すために潮汐を利用したというハンティングドンの記述を誤って伝えたものである[ 102] 。
第15代アメリカ合衆国最高裁判所長官 のウォーレン・バーガー (英語版 ) は、1980年 のチャクラバティ判決 (英語版 ) (447 U.S. 303)においてクヌートに言及し、微生物 は「遺伝子研究に終止符を打つことはできないだろう」と特許の否認を述べた[ 103] 。バーガーはこれを、潮汐に命じるクヌートになぞらえている。
史実性と想定される場所
ジョセフ・クロンヘイム (英語版 ) による19世紀の絵画。
当時の『王妃エマ讃』には波の説話への言及がなく、この史料が「ローマに向かう途上にて、サントメール の僧院と貧者へのクヌートの惜しみない贈り物と、それに伴う涙と大袈裟な目撃談」を伝えているため、それは非常に敬虔な献身を記録したのであって、史実ではないことを示唆するとされる。
11世紀の聖人伝作家ゴスリン (英語版 ) は後にそれどころか、クヌートはウィンチェスターのある復活祭 にて十字架の上に王冠を掛けたものの、海辺での実演や「イエスは彼よりもそれに相応しいと説明して」といった言及はなかったとしている。しかしこの話の裏には、「計画された敬虔な行為における事実の元」がある可能性を含む。
一方、オックスフォード大学 のマルコルム・ガッデン (英語版 ) 教授は説話を単に「それは12世紀の伝説であり、(中略)そして当時の歴史家らは、アングロ・サクソン時代の王に関する話を常にでっち上げていた。」としている[ 102] 。
説話の場所については、ロンドンの統治期にクヌートが王宮を建て、現在はウェストミンスター として知られるソルニー島 (英語版 ) と同一視されることもある[ 104] [ 105] 。それと矛盾して、サウサンプトン 中心部のクヌート街(Canute Road)の標識 には「西暦1028年のこの付近にて、クヌートは彼の臣下を窘めた」とある[ 106] [ 107] 。ウェスト・サセックス のボシャム (英語版 ) やリンカンシャー のゲインズバラなどもその可能性として挙げられている。ゲインズバラは内陸部にあるため、説話が事実であればクヌートはトレントの海嘯 (英語版 ) として知られる海嘯 を押し戻そうとしたことになる。もうひとつの言い伝えによれば、当時マーシア王国 の一部であったウィラル半島 (英語版 ) の北岸だとしている[ 108] 。
結婚と子女
最初の妃エルフギフ・オブ・ノーサンプトン との間に2子をもうけた。
スヴェン (1016年頃 - 1035年) - ノルウェー王(父と共治、1030年 - 1035年)
ハロルド1世 (1040年没) - イングランド王(1035/7年 - 1040年)
2番目の妃エマ・オブ・ノーマンディー との間に2子をもうけた。
ハーデクヌーズ (1018/9年 - 1042年) - デンマーク王(1035年 - 1042年)、イングランド王(1040年 - 1042年)
グンヒル (1020年頃 - 1038年) - ドイツ王ハインリヒ3世 と結婚。夫が神聖ローマ皇帝となる前に死去。
脚注
注釈
^ デンマーク語 :Knud den Store / Knud II、ノルウェー語 :Knut den mektige、スウェーデン語 :Knut den Store
^ クヌートはそこで彼を王と呼ぶ硬貨 を鋳造させたが、彼の侵略についての物語の記録はない。
^ アール、イギリス の伯爵 に相当。スカンディナヴィアを起源に持つ称号であり、既にイングランドでもローカライズされ使われていたが、現在では全ての地域でエアルドルマンに代わって使用されている。
^ Enimvero extra numerum bellorum, quibus maxime splenduit, tria gessit eleganter & magnifice
出典
^ Cantor, Norman (1995). The Civilisation of the Middle Ages . p. 166
^ Encomiast. Encomium Emmae . ii . p. 18
^ Thietmar. Chronicon . vii . pp. 446-447
^ Graslund, B. (1986). “Knut den store och sveariket: Slaget vid Helgea i ny belysning”. Scandia 52 : 211-38.
^ a b ASC, Ms. D, s.a. 1031.
^ Snorri. “34”. Heimskringla' [The History of Olav Trygvason] . p. 141
^ Adam of Bremen. “37”. History of the Archbishops of Hamburg-Bremen . Book II
^ Adam of Bremen [ 15] ; Book IIも.
^ Snorri. “91”. Heimskringla [The History of Olav Trygvason] . p. 184
^ John, H. (1995). The Penguin Historical Atlas of the Vikings . Penguin . p. 122
^ a b Ellis. Celt & Saxon . p. 182
^ William of Malms. Gesta Regnum Anglorum . pp. 308-310
^ a b c Sawyer. History of the Vikings . p. 171
^ Bolton, Timothy (2009) (英語). The Empire of Cnut the Great: Conquest and the Consolidation of Power in Northern Europe in the Early Eleventh Century . Brill. pp. 248. ISBN 978-90-04-16670-7 . https://books.google.com/books?id=c_8LAQAAMAAJ&newbks=0&hl=en
^ Garmonsway, G.N. (ed. & trans.), The Anglo-Saxon Chronicle , Dent Dutton, 1972 & 1975, Peterborough (E) text, s.a. 1015, p. 146.
^ Campbell, A. (ed. & trans.), Encomium Emmae Reginae , Camden 3rd Series vol. LXXII, 1949, pp. 19–21.
^ G. Jones, Vikings , p. 370
^ Anglo-Saxon Chronicles , pp. 146–49.
^ Anglo-Saxon Chronicles , pp. 148–50
^ Anglo-Saxon Chronicles , pp. 150–51
^ Anglo-Saxon Chronicles , pp. 151–53
^ Anglo-Saxon Chronicles, pp. 152–53 ; Williams, A., Æthelred the Unready the Ill-Counselled King , Hambledon & London, 2003, pp. 146–47.
^ Molyneaux, George (2015) (英語). The Formation of the English Kingdom in the Tenth Century . Oxford University Press. pp. 35. ISBN 978-0-19-102775-8 . https://books.google.com/books?id=E1HCBwAAQBAJ&newbks=0&hl=en
^ a b Anglo-Saxon Chronicles , p. 154
^ Thietmar, Chronicon , vii. 7, pp. 502–03
^ Adam of Bremen. Gesta Daenorum . ii. 61 . p. 120.
^ Hudson, Knutr , pp. 323–25.
^ Hudson, Knutr , pp. 330–31.
^ Adam of Bremen, Gesta Daenorum , scholium 37, p. 112.
^ Lawson, Cnut , p.126
^ The Anglo-Saxon Chronicle
^ “Photo of a sign posted in Winchester Cathedral marking Cnut's mortuary chest, posted at the astoft.co.uk web site, retrieved 2009-07-25 ”. 2020年12月3日 閲覧。
^ Henry of Huntingdon. The Chronicle . p. 199
^ Somerset, FitzRoy, 4th Baron Raglan (January 1960). “Cnut and the Waves” . Man 60 : 7-8. JSTOR 2797899 . https://www.jstor.org/stable/2797899 .
^ Style Guide (9th ed.). The Economist . pp. 22. ISBN 978-1-86197-916-2
^ a b “Is King Canute misunderstood?” . BBC News . (2011年5月26日). https://www.bbc.co.uk/news/magazine-13524677 2021年1月7日 閲覧。
^ “Diamond V. Chakrabarty | Findlaw ”. Caselaw.findlaw.com . 2016年11月25日 閲覧。
^ The Palace of Westminster Factsheet G11, General Series, Revised March 2008
^ Parliament of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland. Living Heritage. History of the Parliamentary Estate: Anglo-Saxon origins.
^ “Canute Castle Hotel ”. Archaeological Sites . Southampton City Council (January 2001). 28 April 2012時点のオリジナル よりアーカイブ。21 March 2012 閲覧。
^ “Google Maps, Canute Road Southampton ”. 11 March 2012 閲覧。
^ Harding, Stephen (2016). Ingimund's Saga: Viking Wirral (3rd ed.). University of Chester. p. 178. ISBN 978-1-908258-30-4 . https://books.google.com/books?id=csSxDgAAQBAJ&pg=PA178
参考文献
君塚直隆 『物語 イギリスの歴史 (上) 古代ブリテン島からエリザベス1世まで』中公新書 、2015年 、ISBN 978-4-12-102318-6 。
熊野聰 「内乱と王権の成長」百瀬宏 ・熊野聰・村井誠人『北欧史』山川出版社 〈新版世界各国史21〉、1998年 、ISBN 978-4-634-41510-2 。
スノッリ・ストゥルルソン 「『オーラヴ・トリュッグヴァソンのサガ 』第三十四章 ハラルド・ゴルムスソンの死」『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 - (二)』谷口幸男 (訳)、2009年、65頁。 ISBN 9784905392040 。
山代宏道「『イギリス』の成立」川北稔 編『イギリス史 上巻』山川出版社、2020年 、ISBN 978-4-634-42385-5 。
Adam of Bremen (1917), Gesta Hammaburgensis ecclesiae pontifificum, or History of the Archbishops of Hamburg-Bremen. English translation by F. J. Tschan. , Hamburg: Hahnuni
Campbell, Alistair, ed. (1998), Encomium Emmae Reginae , London: Cambridge University
Ellis, P. B. (1993), Celt & Saxon , Suffolk: St. Edmundsbury Press
Forte, Angelo; Oram, Richard D.; Pedersen, Frederik (2005). Viking Empires . Cambridge: University Press. ISBN 978-0-521-82992-2 . https://books.google.com/books?id=_vEd859jvk0C
Henry of Huntingdon (1853), The Chronicle of Henry of Huntingdon, comprising The History of England, From the Invasion of Julius Caesar to the accession of Henry II. English translation by T.A.M. Forester , London: Henry, G. Bohn
Hudson, B. T. (1994), Knutr & Viking Dublin , Scandinavian Studies
Jones, Gwyn (1984), A History of the Vikings (2nd ed.), Oxford: Oxford University Press, ISBN 0-19-285139-X , https://archive.org/details/historyofvikings0002jone
Keynes, Simon (8 October 2009). "Æthelred II [Ethelred; known as Ethelred the Unready] (c. 966x8–1016), king of England". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/8915 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
Lawson, M. K. (2004), Cnut: England's Viking King (2nd ed.), Stroud: Tempus, ISBN 0-7524-2964-7 , https://books.google.com/books?id=plmfAAAAMAAJ
McGettigan, Darren (2013). The Battle of Clontarf: Good Friday 1014 . Dublin: Four Courts Press. ISBN 9781846823848
Ní Mhaonaigh, Máire (2018). “Perception and Reality: Ireland c.980–1229”. In Smith, Brendan. The Cambridge History of Ireland . Cambridge: Cambridge University Press
Olsen, Olaf (1992). “Christianity & Churches” . In Else Roesdahl; David Mackenzie Wilson. From Viking to Crusader: The Scandinavians and Europe, 800-1200 . Random House. ISBN 978-0-8478-1625-5 . https://books.google.com/books?id=9YNpAAAAMAAJ
Reed, Alan (2015). King Edgar: A Life of Regret . WestBow Press. ISBN 978-1-5127-1898-0 . https://books.google.com/books?id=aj4qCwAAQBAJ&pg=PT31
Richards, Mary P. (2010). “I-II Cnut: Wulfstan's Summa ?”. In Stefan Jurasinski; Lisi Oliver; Andrew Rabin. English Law Before Magna Carta: Felix Liebermann and 'Die Gesetze der Angelsachsen' . Medieval Law and Its Practice. 8 . Leiden: Brill. pp. 137–156. doi :10.1163/ej.9789004187566.i-330.31 . ISBN 9789004187573
Snorri Sturluson (1990), Heimskringla, or The Lives of the Norse Kings. English translation by Erling Monsen & A. H. Smith. , Mineola, New York: Dover Publications, Inc., ISBN 0-486-26366-5
Somerville, Angus A.; McDonald, R. Andrew (2014). The Viking Age: A Reader, Second Edition . University of Toronto Press. ISBN 978-1-4426-0870-2
Stafford, Pauline (2004). "Ælfgifu [Ælfgifu of Northampton] (fl. 1006–1036)" . Oxford Dictionary of National Biography . Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/180 . 2021年4月24日閲覧 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 )
Stenton, Frank (1971). Anglo-Saxon England . Oxford: Clarendon Press. ISBN 978-0-19-821716-9 . https://books.google.com/books?id=0Y65NxJaMtcC&pg=PA393
Thietmar (1962) Chronik: Chronicon ; Neu übertragen und erläutert von Werner Trillmich. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft
Townend, Matthew (2012). “(Introduction to) Sigvatr Þórðarson, Knútsdrápa.”. In Whaley, Diana; Townend, Matthew. Poetry from the Kings' Sagas 1: From Mythical Times to c. 1035. Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages 1 . Turnhout: Brepols. pp. 651–663. ISBN 978-2-503-51896-1
Trow, M. J. (2005), Cnut – Emperor of the North , Stroud: Sutton, ISBN 0-7509-3387-9
William of Malmesbury (1998), Gesta Regnum Anglorum. English translation by R.A.B. Mynors , Oxford: Clarendon Press
関連項目
1603年の王冠連合 後のイングランド及びスコットランドの君主