カール・フランツ・ゲープハルト(ドイツ語: Karl Franz Gebhardt, 1897年11月23日 - 1948年6月2日)は、ドイツの医師、医学者、親衛隊員。医学博士(Dr.med)。親衛隊における最終階級は親衛隊中将及び武装親衛隊中将(SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Waffen-SS)。
1926年にはホーエンアシャウ(Hohenaschau)に医師訓練施設を創立した。ドイツ体育医学協会(Deutschen Ärzteverbandes für Leibesübungen)のスポーツ医師も務めている[1]。
ナチス親衛隊入隊後
1935年。白衣姿のカール・ゲープハルト。
ナチ党政権誕生後の1933年5月1日に国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した(党員番号1,723,317)。同時に幼馴染のヒムラーが指揮していた親衛隊(SS)に入隊した(隊員番号265,894)[1]。1933年から1934年にかけてホーエンアシャウの国家医師施設(Reichsärztelager)長官を務め、1935年からベルリンのシャルロッテンブルク(Charlottenburg)の体育医学研究所(Medizinische institut für Leibesübungen)の長官となる。1936年のベルリンオリンピックに際してはその医師長(Leitender Arzt)を務めた。1937年にはベルリン大学の教授となり、さらにレーベンスボルン(生命の泉)のメンバーともなる[2]。
1936年4月1日から親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー付きの医師の一人に選ばれ、1938年4月20日には親衛隊全国指導者侍医兼主治医(Begleitarzt und Leibarzt der RFSS))となり、ヒムラーの主治医の地位を確立している[2]。
第二次世界大戦開戦後の1939年10月26日から親衛隊病院(SS-Lazarett)となったホーエンリューヘン病院(ドイツ語版)の部長医(Chefarzt)に就任し、負傷した武装親衛隊の隊員たちを診た。1940年から国立体育研究所(Reichsakademie für Leibesübungen)の医療部門部長にも就任した。1940年5月15日にリヒャルト・クリューガー博士(Dr.med.Richard Krüger)に代わって武装親衛隊医師長(Beratender Chirurg der Waffen-SS)となった。これらの地位はいずれもドイツの敗戦まで保持している[2]。