ともあれ、『フランク王国年代記』によれば、「ユダヤ人イザークは象を伴いアフリカより帰還し(ラテン語: Isaac Iudeus de Africa cum elefanto)」[2]、ポルトヴェーネレ (ジェノヴァ市ちかく)に801年10月、帰港した[13][2]。しかし冬が迫るためヴェルチェッリに留まり、翌年までアルプス越えを延期した。そしてようやく802年7月20日にカール大帝の王宮のあるアーヘンに到着した[14][2][9]。
死
810年、カール大帝は、フリースラントを侵したデンマーク王ゴズフレズの艦隊を迎撃しようと遠征に出た。ライン川を渡河したのち「リッペハム」(ラテン語: Lippeham)という場所で、3日間のあいだ残りの軍の結集を待っていたが、その間に「サラセン人の王アーロンから贈られた象 (ラテン語: elefans ille, quem ei Aaron rex Sarracenorum miserat)」、が急死したとしている。[1][2] 「アーロン」とは、「ハールーン」のラテン読みである。
近著のなかには、アブル=アッバースがアルビノもしくは白象と断ずるものがある。早い例では、アメリカのWillis Mason West の著作(1902年)に「白い象」だとの記述がある[25]。さらに1971年、ニュージーランドの歴史学者ピーター・マンツが著した大衆向けの本にやはり「白い象」だったとの記述があるが、ある書評者はこれを誤謬としており、自分の知るかぎり白象であるという証拠はないとしている[26]。 また、「白象」への言及は、2003年にアーヘン市で開催された展示会に付帯する出版物『Ex oriente : Isaak und der weisse Elefant』の題名にもあるが、そこに収録された Grewe 、Pohle 共著の寄稿では「カール大帝への有名な贈物のひとつに(白い?)象があった」と、疑問符を加えている[27]。
^事実を違えているのは、たとえば「カール大帝が、.. 聖墳墓教会へ派遣した使者たちが、ハールーンのもとへやってきて.. (聖墳墓)がカール大帝の管轄に置かれることに同意した」という部分。実際はハールーンにではなくエルサレム総主教庁へ遣わせたのであり、聖墳墓とゴルゴタの丘の鍵を託したのは、恭順ではなく敬意を示したに過ぎない。また、アインハルトによれば、ハールーン・アッ=ラシードは、自分が持っているたった1頭("quem tunc solem habetat")の象を差し出した、とあるが、これはアインハルトの創作とされる[4]。
^ abSherman, Dennis; Salisbury, Joyce. The West in the World, Volume I: To 1715. 1 (3 ed.). New York: McGraw-Hill. p. 220. ISBN0-07-331669-5. OCLC177823124, "Chroniclers of the 'Abbasid caliphate, on the other hand, never mentioned these interactions"
^Scholz 1970, p. 82, "..and the envoy of Emir Abraham, who ruled on the border of Africa in Fustât"; Scholz 1970, 801年の注4, "Harun al-Rashid, emir al Mumenin.. appointed Ibrahim ibn al'Aghlab governor of Africa about 800. Fustât, his place of residence is Abbasiya near Kairwan in southern Tunis.."
^Annales regni francorum Anno 801 (Kurze 1895, p. 116, Monumenta Germaniae Historica 版)
^Annales regni francorum Anno 802 (Kurze 1895, p. 117, Monumenta Germaniae Historica 版)
^ abcdefDembeck, Hermann (1965). Animals and men. Natural History Press. p. 264. ISBN1-598-84347-8. //books.google.co.jp/books?id=1LS1AAAAIAAJ (参照:Dembeck, Mit Tieren leben, 1961)
^Nünning & Cohausen 1746, p. 44, "..os Elephantini femoris, ex inculto ad Rheni ripam agro haud procul Luppiae ostiis, olim Luppemunda, Luppeheim, Lippeham, Lippekant, & Lippia dictis. ubi vetus celebrisque Regum Francorum Carolingicae Stirpis olim fuit curia, hodie VESALIA dicta" (「象の大腿骨がライン川岸の野から出土したが、そこはリッペ川の河口、つまりルッペムンダ、ルッペハイム、リッペハム、リッペカント、リッピアなどとも呼ばれ、かつてカロリング王朝の歴代王が開廷した、現今のウェサリア(ヴェセル)である」
^Nünning & Cohausen 1746, p. 48, Itaque os Musei nostri cum Elephantis fit,.. ad exuvias ABULABAZII Carolo M. ab Aarone Persarum Rege dono submissi"