生年不詳で770年ごろのドイツマイン川地方(当時のフランク王国東部マインガウ(Maingau))の貴族階級の生まれと推察されている。
幼くして教育を受けるためにフルダ修道院に預けられ、20歳頃には書記(Urkundenschreiber)を務めている。修道院長の注目するところとなり、教育の完成のためにカール大帝の宮廷に送られる。まず、アルクインの弟子になり、796年/797年にはカール大帝の側近となっている。師がトゥール(Tours)に移ると、彼は宮廷学校(Hofschule)の中心人物となる。背丈が低く、その豊かな学識(prudentia)と誠実な人柄(probitas)ゆえに王や側近の信頼が厚く、幾つかの司教座を与えられていた。王宮に関わる建築においても指導的役割を演じ、皇帝の教皇への使者の役割も果たしている。大帝の遺言書作成に関わったと思われる。カールの死後、その息子ルートヴィヒ1世にも仕え、王の書簡を作成している。王子ロタール(ロタール1世)の教育係にもなった。815年オーデンヴァルトのミヒェルシュタット(Michelstadt)と生まれ故郷マイン川河畔のミュールハイム(Mühlheim)(今日のゼーリゲンシュタットSeligenstadt)にある王領をもらい受け、晩年をそこで過ごした。その間ディオクレティアヌス帝治下に殉教した聖人の聖遺物を手に入れたが、その経緯を『聖マルケリヌスとペトルスの移葬と奇蹟』("Translatio et miracula SS. Marcellini et Petri " ; 830)として詳細に記録している。後世『カロルス大帝伝』("Vita Karoli Magni ")の著者としてよく知られている。ヴォルムス司教ベルンハルトの姉妹インマ(Imma)を娶っていたが、彼女を836年に亡くしている。彼は840年3月14日に隠遁の地で没した。建築家としても優れた彼はミヒェルシュタットに遺構の残るアインハルトバシリカ聖堂、オーバーミュールハイムの聖マルケリヌス=ペトルス教会などの建築も行っている[3]。
グリム兄弟による『ドイツ伝説集』457番「エギンハルトとエンマ」(Eginhart und Emma)等には、若きアインハルトが、ギリシア王と婚約していたカール大帝の娘エンマ(Emma)と密かに愛し合っていた。ある日、逢瀬の後の朝かれが住居に戻ろうとすると道には雪が積もっている。彼女は彼を背負ってその住まいまで届け、帰りは同じ所に足跡をつけながら戻った。この夜眠れないでいた大帝はこれを見て驚き苦しんだが、最終的には二人を赦し結婚させたとある[4]。フュルステナウ城(Schloss Fürstenau)には、「アインハルトとその妃であるカール大帝の娘・・・」と記された、1622 (?) 年制作の夫妻の絵がある[5]。悪童漫画の傑作『マックスとモーリッツ』で日本でも知られているヴィルヘルム・ブッシュ(1832-1908)は週刊新聞 Fligende Blätter に二人のエピソードを戯画化した漫画 »Eginhard und Emma. Ein Fastnachtsschwank in Bildern »を寄稿している[6]。
そのほか、すでに言及した『聖マルケリヌスとペトルスの移葬と奇蹟』("Translatio et miracula SS. Marcellini et Petri " ; 830)以外に、『書翰集』(»Epistulae≪; 814 ?-840)、『十字架の崇敬について』(»De Adoranda Cruce≪)、『フランキア王国年代記』(»Annales Regni Francorum≪)が伝えられている[10]。