MTKブダペストFC(ハンガリー語: MTK Budapest FC)は、ハンガリーの首都ブダペストを本拠地とするサッカークラブである。
クラブは1888年11月16日にブダペスト市内のカフェにて「マジャル・テシュトジャコルローク・ケレ」(Magyar Testgyakorlók Köre、「ハンガリー身体トレーニング・サークル」の意[3])として創設された[4]。「クラブ」や「競技」、「体操」、「協会」といった単語は上流階級の市民を連想させ、大衆から見れば排他的でお高く聞こえるため、このような言葉は用いられなかったと指摘される[3]。MTKは当初フェンシングと体操部門のみであったが、1901年3月12日にサッカー部門が設立された。最初の試合ではブダペストTC(ハンガリー語版)を相手に0-0で引き分けた[4]。
その後、MTKは第一次世界大戦の影響を受けながらも1905年から1940年代のアマチュアリーグからプロリーグ黎明期にかけて15回のハンガリーリーグのタイトルと7回のハンガリーカップを獲得した。一方、第二次世界大戦の頃にはユダヤ人排斥の台頭に伴い、クラブの創設に携わったユダヤ系の関係者や選手たちを排除するよう圧力を受けた[4]。
戦後、ハンガリーが共産主義国となった1949年にMTKはハンガリー国家保衛庁 (ハンガリー語: Allamvedelmi Hatosag, 略称:AVH) によって買収され「Textiles SE」と改称した。それから短期間のうちに「Bástya SE」、「ヴェレシュ・ロボゴー SE」(Vörös Lobogó SE、赤旗の意) と改称した後、最終的にMTKに戻された[4]。この混乱にも関わらず1950年代には3度のリーグタイトル(1951年、1953年、1958年)を獲得、1955年に国際タイトルであるミトローパ・カップを制覇。また同年にUEFAチャンピオンズカップに出場UEFA主催の国際大会に参加する初のハンガリーのクラブとなり、その後1963-64シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは決勝へ進出、ポルトガルのスポルティングCPと対戦し、準優勝の結果を残した。
MTKの選手達はマジック・マジャールとして知られるハンガリー代表の成功の中でブダペスト・ホンヴェードの選手達と共に中心的な役割を果たした。 ヒデクチ・ナーンドルは1953年11月25日に敵地ロンドン・ウェンブリー・スタジアムで行われたイングランド代表との試合においてハットトリックを記録し、歴史的な試合の勝利に貢献するなど攻撃面で重要な役割を果たし、ラントシュ・ミハーイとザカリアーシュ・ヨージェフは守備面で代表を支えた[4]。
また、マジック・マジャールは従来のWMシステムを発展させた4-2-4の原型となるシステムを採用し、後に世界中に普及していったが、そのシステムを最初に採用したのがMTKの監督ブコヴィ・マールトンで、後に代表監督のシェベシュ・グスターヴ(彼も元MTKの選手)によって採用されたといわれる。
国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) が発表した20世紀ヨーロッパにおけるクラブランキングでは、ハンガリーのクラブとしてはフェレンツヴァーロシュTC、ウーイペシュトに次いで、58位にランクされた[5]。
クラブは創設以来、アマチュアからプロへの移行、代表者の交代、財政問題、1949年のハンガリー人民共和国の成立に伴う国有化などの影響により様々な名称変更を行っている[6]。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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