1970年アメリカグランプリ (1970 United States Grand Prix) は、1970年のF1世界選手権第12戦として、1970年10月4日にワトキンズ・グレン・グランプリレースコースで開催された[2]。
レースは108周で行われ、ロータスのエマーソン・フィッティパルディが3番手スタートから優勝した。フィッティパルディは4戦目の出走[注 1]で自身及びブラジル人ドライバーによるF1初勝利を挙げた。BRMのペドロ・ロドリゲスは首位を走行中にガス欠に見舞われ2位、フィッティパルディのチームメイトでF1デビュー戦のレイネ・ウィセルは3位に入賞して唯一の表彰台を得た。
フェラーリのジャッキー・イクスはポールポジションからスタートしたが、燃料ラインが壊れてピットインしなければならず4位に終わり、ヨッヘン・リントは死後にチャンピオンを獲得した唯一のドライバーとなった。
背景
ヨッヘン・リントはイタリアGPで亡くなるまでに45点を獲得し、2位のジャッキー・イクスに17点の差を付けている。イクスがリントを逆転してドライバーズチャンピオンとなるには、残り2戦を連勝する必要がある[3][注 2]。コンストラクターズチャンピオン争いはロータスがフェラーリとマーチに7点差を付けて首位となっているが、本レースでロータスがフェラーリとマーチより2点以上多くポイントを獲得すれば、1968年以来4回目のコンストラクターズチャンピオンが決定する[4][注 3]。
エントリー
ロータスはヨッヘン・リントが事故死したイタリアGPを棄権し、続く前戦カナダGPを欠場したが[5]、リントのドライバーズチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンを獲得するため復帰した。ロータスはドライバーラインナップの一新を図り、リントのチームメイトだったジョン・マイルズを放出し、それまでサードカーで有望な走りを見せていた若手のエマーソン・フィッティパルディをエースに抜擢して昇格させ、F2ドライバーの新人レイネ・ウィセルを新たに起用した[4]。
サーティースはデレック・ベルが2台目のTS7を走らせ、BRMはピーター・ウェストバリー(英語版)が4台目のP153を走らせる[6]。地元出身のガス・ハッチソン(英語版)は自ら購入したブラバム・BT26Aでスポット参戦する[7]。
エントリーリスト
- 追記
予選
土曜日は降雨に見舞われたため、多くのドライバーは金曜日のタイムがベストタイムとなった[4]。ジャッキー・イクスが2番手のジャッキー・スチュワートを0.5秒差以上引き離し[6]、今季4回目のポールポジションを獲得した[4]。ロータスの新しいエースとなったエマーソン・フィッティパルディは3番手で、ペドロ・ロドリゲスとともに2列目を得た。以下、クリス・エイモンとクレイ・レガツォーニが3列目、ジャッキー・オリバーとジョン・サーティースが4列目を占めた。F1デビュー戦のレイネ・ウィセルは9番手で、グラハム・ヒルと5列目に並ぶ[6]。
予選結果
- 追記
決勝
ジャッキー・スチュワートがスタートでリードを奪い、ペドロ・ロドリゲスがフェラーリ勢を抜いて2位に浮上した。彼らの後方にはクリス・エイモン、ジョン・サーティース、ジャッキー・オリバー、そしてスタートで出遅れたエマーソン・フィッティパルディが続いた。サーティースはすぐにメカニカルトラブルが発生してリタイアし、オリバーもエイモンを抜いた後の15周目にリタイアした。16周目にジャッキー・イクスがロドリゲスを抜き、クレイ・レガツォーニも次の周にロドリゲスを抜いた。この時点でエイモンが5位、フィッティパルディは6位を走行していた[6]。
30周目までにスチュワートはイクスに25秒の差を付けて首位を独走し、イクスがレガツォーニに5秒の差を付けていた。レガツォーニは37周目にブリスターが発生したタイヤを交換しなければならず順位を落とした[4]。エイモンも48周目にタイヤを交換したため順位を落とし、フィッティパルディは4位に浮上した。イクスは57周目に燃料漏れに見舞われてピットインして12位に後退し、逆転チャンピオンの希望はここで事実上潰えたが[6]、ここから猛烈な追い上げに転じた[3]。
首位を独走していたスチュワートだったが、83周目にオイル漏れによってリタイアした。これでロドリゲスが2位のフィッティパルディに20秒差を付けて首位に立った[6]。しかし、ロドリゲスは残り7周でガス欠に見舞われてピットインを余儀なくされ、フィッティパルディが首位に立ってそのままチェッカーフラッグを受け、F1デビューから4戦目[注 1]で初優勝を果たした[3]。ロドリゲスはコースに復帰して2位でフィニッシュし[6]、フィッティパルディのチームメイトでこれがF1デビュー戦のレイネ・ウィセルが3位表彰台を獲得した。イクスは猛追したが4位に終わり、亡くなったヨッヘン・リントのドライバーズチャンピオンと[3]、ロータスのコンストラクターズチャンピオンが決定した[12]。
後輩達の頑張りによってリントとロータスのダブルタイトルが決定し、コーリン・チャップマンに再び笑顔が戻った。リントはチャンピオン決定の知らせを天国で聞いた[3]。
1956年にパーマネントコースとなって以来[注 4]、2.35 mi (3.78 km)のレイアウトが使われていたが、この年が最後となった。翌1971年の改修でレイアウトが変更され、3.377 mi (5.435 km)に延長された。同年のアメリカGPに間に合わせるため、事前に行われたワトキンス・グレン6時間レース(英語版)は暫定的なレイアウトが採用された。
レースを主催するワトキンス・グレン・グランプリ・コーポレーションは、翌年の冬にグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)から2回目の「ベスト・オーガナイザー・レース・アワード」を、ホッケンハイムリンクで開催されたドイツGPとともに受賞した。
レース結果
- 優勝者エマーソン・フィッティパルディの平均速度[9]
- 204.020 km/h (126.772 mph)
- ファステストラップ[15]
- ラップリーダー[16]
- 太字は最多ラップリーダー
第12戦終了時点のランキング
- ドライバーズ・チャンピオンシップ
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- コンストラクターズ・チャンピオンシップ
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- 注: トップ5のみ表示。前半7戦のうちベスト6戦及び後半6戦のうちベスト5戦がカウントされる。
脚注
注釈
出典
参照文献
外部リンク