1951年の東急フライヤーズでは、1951年の東急フライヤーズの動向をまとめる。
この年の東急フライヤーズは、安藤忍監督の2年目のシーズンである。
概要
前年加盟の近鉄の最下位に助けられ、安藤監督の1年目は7位で終了。成績上昇が期待されたものの、この年は鶴岡一人監督率いる南海の独走を許し、5月の3位を境にチームも勢いが低下。最後は大映・阪急に抜かれて7球団中6位に沈んだ。投手陣は米川泰夫が奮闘したものの、それに続く投手が不在でチーム防御率3.64はリーグ最下位に終わった。打撃陣は大下弘が.383の高打率で首位打者を、26本塁打で本塁打王を獲得した。シーズン終了後、1946年の入団以来4番として活躍していた大下と球団の契約交渉が決裂。最後は契約交渉が決着したものの、大下は翌年、深見安博との交換トレードで西鉄へ移籍。西鉄移籍後も若い選手の多かったチームの精神的支柱として4度の優勝に貢献し、その後1968年に東映の監督として復帰することになる。
チーム成績
レギュラーシーズン
1951年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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最終成績
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1位
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南海 |
--
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南海 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
2位
|
東急 |
1.5
|
西鉄 |
3.0
|
毎日 |
9.0
|
毎日 |
13.0
|
毎日 |
14.5
|
西鉄 |
18.5
|
3位
|
西鉄 |
3.5
|
東急 |
6.0
|
西鉄 |
9.5
|
西鉄 |
14.5
|
西鉄 |
18.5
|
毎日 |
22.5
|
4位
|
近鉄 |
4.0
|
毎日 |
7.0
|
阪急 |
15.0
|
東急 |
17.0
|
阪急 |
23.5
|
大映 |
29.5
|
5位
|
毎日 |
4.5
|
近鉄 |
8.5
|
東急 |
16.0
|
大映 |
18.0
|
東急 |
24.5
|
阪急 |
31.0
|
6位
|
阪急 |
4.5
|
大映 |
9.5
|
大映 |
17.0
|
阪急 |
18.5
|
大映 |
24.5
|
東急 |
33.0
|
7位
|
大映 |
6.5
|
阪急 |
11.5
|
近鉄 |
17.5
|
近鉄 |
24.0
|
近鉄 |
31.0
|
近鉄 |
33.5
|
[1]
オールスターゲーム1951
できごと
選手・スタッフ
[2][3]
表彰選手
リーグ・リーダー
|
選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
|
大下弘
|
首位打者 |
.383 |
2年連続3度目
|
本塁打王 |
26本 |
4年ぶり3度目
|
ベストナイン
|
選手名 |
ポジション |
回数
|
大下弘 |
外野手 |
3年連続4度目
|
出典
|
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1940年代 | |
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
---|
1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 |