駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 1994年12月27日)は、日本の作家、文芸評論家、中国文学者。島根大学教授、桜美林大学教授、早稲田大学客員教授などを歴任した。
1914年1月14日、父の勤務地の大阪府大阪市に生まれる。本籍は三重県安濃郡多門村(現在は津市)で、家は明治23年(1890年)の名簿によると地価総額3036円余りの素封家だった[2]。兄は父の姉の家を継いだ美術史家の谷信一。父の転勤で広島、金沢、東京と移動したのち、津で祖父母に育てられ、津中学校卒業、旧制山形高校を経て1940年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。
1941年旧制松江高校教授となるが、1942年召集されて支那に出征、捕虜となり共産党の工作員と誤認されて死刑宣告を受けるが日本人と分かり釈放。1946年に復員後、旧制松江高校教授、1950年新制島根大学助教授、1955年退職して上京、各大学の非常勤講師をしながら著述生活を送り、1965年桜美林大学文学部教授となり中国文学科を興すが、1969年学園紛争のため退職、1975年早稲田大学客員教授。1994年12月27日、急性心筋梗塞のため東京都府中市の病院で死去した[3]。
1965年、子供向け伝記「孫文」でサンケイ児童出版文化賞受賞。1958年から1980年まで『文學界』の同人雑誌評を、林富士馬、小松伸六、久保田正文とともに続け、その功績で1979年菊池寛賞受賞。1988年、三重県から駒田家伝来の古文書約4900件の寄贈を請われ、これを実行している[2](現在は三重県総合博物館蔵)。
小説家として中谷孝雄に師事し、戦前の『日本浪曼派』に参加、戦後、戦争小説「脱出」(1948)で「人間」新人賞を受賞。『水滸伝』などの翻訳、『一条さゆりの性』などのストリッパーものなどで知られる。中国の艶笑譚やエロチックな小説を大胆に脚色した作品も多い。
後進の小説家を育てることに熱心で、1976年から始まった朝日カルチャーセンターの「駒田信二の小説教室」は、芥川賞作家の重兼芳子を生んだことで一時有名だった。
中国文学界で尊崇されていた吉川幸次郎の『水滸伝』の誤訳を批判しており、吉川の弟子で、松江高校時代の駒田の教え子でもある高橋和巳に、誤訳箇所を示し伝えるよう言ったところ、自分には言えないと言われ、手紙を書いて高橋に託したが、以後、高橋は出入りしなくなってしまった。駒田は1981年、このことをエッセイ「書けなかったこと」に書いた。だが、吉川が死んでから言うのは卑怯ではないかという批判があり、1982年のエッセイ「「書けなかったこと」に対する批判者に答える」で、実は1961年に吉川批判のエッセイを書いていたのだが編集者から突き返されていた、と書いている(いずれも『遠景と近景』所収)。
高島俊男によると、捕虜になって死刑宣告を受けたのは気を失っている間に捕らえられ、日本軍に味方した中国人(漢奸)と思いこまれてしまっていくら説明しても信じてもらえなかったからとのことで、「小説に書かれては」と高島が言ったところ「あまりに奇妙すぎて小説にならない(小説としてリアリティに欠ける、の意)」と述べたという(『本と中国と日本人と』、ちくま文庫)。
松江高校時代の教え子の篠田一士の回想によると、マチネ・ポエティクの人たちの将来性を買っていたという(冨山房百科文庫版『1946・文学的考察』の解題による)。
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