青木 玉(あおき たま、1929年11月30日 - )は、日本の随筆家である。幸田露伴の孫、幸田文の一人娘。
東京出身。東京女子大学国語科卒業。1994年「小石川の家」で芸術選奨文部大臣賞受賞。
娘の青木奈緒もエッセイスト。
略歴
1929年11月30日、父三橋幾之助、母幸田文の一人娘として、東京市芝区伊皿子(現東京都港区)に生まれる[1]。生後八ヶ月で腸重積で手術を受けるなど、幼少の頃は病気がちであった。
1936年、永田町小学校(現麹町小学校)入学[2]。この年、築地で会員制小売り酒屋を開店。三橋本店が倒産[3]。
1937年、京橋に引っ越して小売り酒屋を開く。このとき既に幾之助は結核にかかっており、実際には文が店を切り回していた。翌年、幾之助は肺壊疽のため手術を受け回復[4]するも、文と玉は幸田露伴の家に戻り、協議離婚した[3]。
1943年、三輪田高等女学校入学[3]。
1944年、立川飛行機製作所に動員される[3]。
1945年、露伴、文とともに露伴の再婚相手であった八代(やよ)の別居先の長野県に疎開。その後、露伴を伊東に移し、文と玉は土橋利彦宅へ一時留まったのち、千葉県市川市菅野に家を借りて移り住んだ。(翌年、露伴を菅野の家に移した)[3]
1946年、東京女子大学入学[3]。
1947年、東京大空襲のため焼失した小石川蝸牛庵跡に家を建て、移り住む[3]。
1959年、結核予防会結核研究所の医師、青木正和[5]と結婚[3]。
1961年10月12日、尚が生まれる。12月に小石川蝸牛庵の近所に家を建て引っ越す[3]。
1963年4月14日、奈緒が生まれる[3]。
1990年10月31日、文が心不全のため死去[3]。
以降、幸田文の未刊行作品の編纂、岩波書店版『幸田文全集』の編集委員等をつとめる。
1994年、『幸田文全集』の出版に合わせ、小石川蝸牛庵に引っ越した後の様子を綴った自伝的随筆『小石川の家』を発表し、文筆活動も開始した(なお『小石川の家』は1995年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した)[6]。
著書
編著・共著
- 『幸田文 しつけ帖』平凡社、2009
- 『幸田文 台所帖』平凡社、2009
- 『幸田文 きもの帖』平凡社、2009
- 『幸田文 季節の手帖』平凡社、2010
- 『幸田文 旅の手帖』平凡社、2010
- 『幸田文 どうぶつ帖』平凡社、2010
- ※幸田文の遺稿の編纂刊行
- 「木」、「崩れ」、「季節のかたみ」、「きもの」ほか
- 『幸田文全集 全23巻・別巻1』 岩波書店、1994-1997・2003年、編集委員の一人。
- 『ひとりの生き方 ふたりの生き方』講談社、上坂冬子との対談 1999.8
- 『きもの暮らし 着こなしの知恵と楽しみ』PHP研究所、2000 京都「染司よしおか」当主の吉岡幸雄との対談
映像化
- 『小石川の家』 1996年1月1日、テレビ東京にて単発ドラマ(2時間30分)として放送。
- 『小石川の家』(青木玉)、『父』『みそっかす』(幸田文)のエピソードをアレンジし、昭和13年から昭和20年ごろにかけての露伴、娘文、孫玉の日常を綴る[7]。
- 配役
- スタッフ
- 受賞歴
出典
- ^ 三橋幾之助は清酒問屋「あまほん」を経営する三橋家の三男。幾之助は幸田家の養子として入籍したが、経営に際しては三橋を名乗っていた。『幸田文全集』第23巻、年譜
- ^ 『幸田文全集』月報別巻・付録 P111
- ^ a b c d e f g h i j k 『幸田文全集』第23巻、年譜
- ^ 幾之助は1940年に結核のため死去。『幸田文全集』第23巻、年譜
- ^ のち結核予防会会長。2010年5月29日死去。公益財団法人結核予防会機関誌「複十字 No.334 pp.2-5」
- ^ 『文藝別冊 増補新版 幸田文』 河出書房新社、2014年。『小石川の家』 講談社文庫、1998年
- ^ 久世光彦 「風呂敷」「森繁さん (1)」『ニホンゴキトク』 講談社文庫、1999年
- ^ 日本民間放送連盟賞/1996年(平成8年)入選・事績 テレビドラマ部門
- ^ 東京ニュース通信社・第14回(1995年度)向田邦子賞