阿部 正精(あべ まさきよ)は、江戸時代後期の大名。備後国福山藩の第5代藩主。江戸幕府の幕閣で老中を務めた。阿部家宗家9代。官位は従四位下・侍従。
第4代藩主・阿部正倫の3男として江戸で生まれる。享和3年(1803年)に正倫の隠居により30歳で家督を相続する。
襲封から半年も経たない文化元年(1804年)に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任する。その後、病を患い寺社奉行を辞任するが、文化7年(1810年)に再任される。文化14年(1817年)、寛政の改革期から通算26年間にわたり幕閣内に残留する老中首座・松平信明が危篤に陥ったため、将軍徳川家斉は密かに幕閣改造を企てる。まず側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて正精を寺社奉行から大坂城代、京都所司代を飛び越えさせて老中に抜擢した。これは、家斉が寛政の改革の厳しさを嫌っての人事であり、正精が保守派にとって都合の良い存在であったことが窺える。実際、正精の老中在任中に空前の賄賂政治が横行することになった。
正精の老中在職中の功績として、江戸の範囲を確定したことが挙げられる。それには次のようなエピソードがある。
江戸御府内という言葉があるが、言葉だけが独り歩きして、区画が具体的にどこからどこまで指すのかが不明であった。ある大名から書面で伺い書が出され、正精は文政5年(1822年)12月、朱線で囲った地図とともに次のような通達を出している。これは「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」というもので、
としたものである。
文政6年(1823年)、正精は病のため老中職を辞し、同9年(1826年)に53歳で藩主在任のまま卒する。
長男の正粹は病気を理由に廃嫡、次男は早世したので、跡は3男・正寧が継いだ[1]。
藩政において正精は、先代・正倫の始めた財政再建を継承し、経費削減と負債償還を目指して特定の豪商・豪農に便宜を図り、藩財政に寄与させ、鞆港(鞆の浦)の整備に力を入れた。しかし、10万両を超えるといわれる負債は利子を返済するのがやっとで、財政の健全化に程遠い状況なのは変わりはなかった。
また、江戸駒込藩邸内に学問所を設置したり、民間救済機関で文化教育に取り組む「福府義倉」を援助し、朱子学者菅茶山に歴史書「福山志料」の編纂を命じているなど、文化政策に熱心であった。そのため、文化の興隆は阿部期の福山藩で最盛期を迎え、自身も多くの書画を残した。
正精は「英明温恭」にして「克く細民の難苦を察す」る人物であった、と評価されている。また、「寛大」とも評された。これは、先代の父・正倫が百姓一揆(天明大一揆)を防ぎきれなかったことを意識してとられていたのではないか、とも推定されている[2]。
森鴎外の史伝小説である『伊澤蘭軒』『北條霞亭』に表題の主人公たちの主君として登場する。ここにその主な登場箇所を挙げる。なお、鴎外からはその号の一つ「棕軒」の名で呼ばれることも多い。また、初登場時のみ「椶軒」の字に作っている。
七言律詩「半歳寥寥久抱痾(はんさいりょうりょうひさしくやまいをいだく)。
一朝解綬意蹉跎(いっちょうじゅをときいさだたり)。
欲抛人世栄名累(じんせいえいめいのるいをなげうたんとほっするも)。
難奈君恩眷寵多(くんおんけんちょうのおおきをいかんともしがたし)。
庭際霜寒飄老葉(ていさいしもさむくしてろうようをひるがえす)。
池頭秋晩倒枯荷(ちとうしゅうばんこかをたおす)。
回思二十年間夢(おもいをめぐらすにじゅうへんかんのゆめ)。
浩歎匆匆駒隙過(こうたんそうそうとしてくげきのすぐるを)。」
そしてその下に 「甲子(文化元年(1804))蒙典謁之命(奏者番の任命)(かっしてんえつのめいをこうむる)、丙寅(文化3年(1806))兼領祠曹(寺社奉行)(へいいんりょうしそうをかね)、丁丑(文化14年(1817))陞相位(老中)(ていししょういにのぼる)、通前後廿年(ぜんごをつうじにじゅうねん)」と、自己の官歴を記した。 七言絶句
一首目「抛擲世紛半歳余(せいふんをなげうつことはんさいよ)。繩床一臥愛間居(じょうしょうひとへにがしてかんきょをあいす)。解官猶在城門内(かんをとけどもなおじょうもんのうちにあり)。無復邸前停客車(またていぜんかくしゃをとどむるなし)。」
二首目「又。陸雲之癖癖做病(りくうんのへきへきやまいとなる)。一擲功名此挂冠(ひとたびこうみょうをなげうちここにかいかんす)。憶得春秋五十夢(おもいえたりしゅんじゅうごじゅうねんのゆめ)。猶疑身是在邯鄲(なおうたがうみはこれかんたんにあるかと)。」
三首目「又。一年沈痼尚難痊(ひととせこにしづみなおいえがたし)。避位避官本任天(くらいをさけかんをさけもとよりてんにまかす)。縁是君恩深到骨(これによりくんおんふかくこつにいたる)。未能采薬去従仙(いまだくすりをとりてせんにしたがうあたわず)。」
四首目「又。菊砕蘭摧各一時(きくくだけらんほろびおのおのいっとき)。人間変態総如此(じんかんのへんたいすべてかくのごとし)。尚存憂国愛君意(なおそんすゆうこくあいくんのこころ)。毎使夢魂夜夜馳(つねにむこんをしてよよにはせしむ)。」
五首目「又。七年相位夢初醒(しちねんしょういゆめはじめてさむ)。解綬一朝意自寧(じゅをときいっちょうおのずからやすし)。遮莫斯身辞眷寵(さもあらばあれこのみけんにちょうをじし)。儘将風月送余齢(ほしいままにふうげつをともにしてよれいをおくる)。」
六首目「又。病躯却喜出塵寰(びょうくかえってよろこぶじんかんをいづるを)。得告一朝免綴班(つげえたりいっちょうていはんをまぬがるるを)。門外雀羅設猶未(もんがいじゃくらもうくることなおいまだし)。南窓翻帙領清間(なんそうちつをひるがえしせいかんをりょうす)。」
七首目「又。陸癖作痾十月余(りくへきあとなりじっかげつよ)。翻将翰墨付間居(ひるがえってかんぼくをもってかんきょにふせんとす)。看他多少男児輩(たのたしょうのだんじはいをみるに)。何事営営索世誉(なにごとぞえいえいとしてせいよをもとむる)。」
八首目「又。春秋已届五旬齢(しゅんじゅうすでにとどくごじゅんのれい)。病鶴離群似鏃翎(びょうかくぐんをはなるるはぞくれいににたり)。疇昔飛鳴九天上(ちゅうせきひめいすきゅうてんのうえ)。夢魂時復到朝廷(むこんときにまたちょうていにいたる)。」
またこれに応じて菅茶山が作った七言絶句八首が載せられている。ただ主人公の蘭軒はこの時「次韻」の作無く、翌年元日の詩に正精の辞職について触れているという(p379~p382)。
「和伊沢信恬(=伊沢蘭軒)甲申元日韻(いざわしんてんこうしんがんじつのいんにわす)。芙蓉積雪映西軒(ふようせきせつせいけんにえいず)。恰是正元対椒尊(あたかもこれせいげんにしょうそんにたいす)。荏苒年光歓病瘉(じんぜんねんこうやまいのいゆるをよろこぶ)。尋常薬物任医論(じんじょうのやくぶつはいろんにまかす)。一声青鳥啼方媚(いっせいのしょうちょうなきてまさにびなり)。幾点白梅花已繁(いくてんのはくばいかすでにしげし)。自値太平和楽日(おのづからたいへいわらくのひにあり)。間身依杖歩林園(かんしんつえによってりんえんをあるく)。」(p431~2)
と推測される(p98)。
『北条霞亭』
『霞亭生涯の末一年』
1698年から1700年まで幕府領