長 新太(ちょう しんた、本名: 鈴木 揫治[注 1][1][2][3]、1927年9月24日[1] - 2005年6月25日[1][2])は、日本の漫画家、絵本作家。
漫画作品のほか、「ユーモラスな展開と不条理な筋立て[1]」による「絵本」と称される数多くの絵本や児童文学の挿絵を描き、「ナンセンスの神様」の異名をとった[4]。エッセイなどの分野でも活動した。
経歴
東京府荏原郡羽田町(のちの東京都大田区)に生まれる。蒲田育ち[3]。戦時中は陸軍少年飛行兵学校を受験したが体重が足りなかったために不合格となる。東京市立蒲田工業学校(現在の東京都立一橋高等学校)卒[1]。蒲田が空襲の被害を受けたため横浜市に移り、ここで敗戦を迎える。映画が好きだったため映画館の看板屋[3]で3年ほど働いた。
1948年12月[3]、東京日日新聞(東日)の漫画コンクール「初笑い東京日日新聞漫画祭り」に応募した、ロングスカートを題材にした4コマ漫画作品『ロング狂』が翌年に二等入選[5]し、東日から連載の寄稿を依頼される。その第1回の時点で、本人に無断でペンネームが「長新太」と名づけられた。名付け親は定かではない(東日の編集局長だった狩野近雄という説がある[3])が、「ロングスカート」より「長」、新人の「新」、図太く行けとの願いを込めて「太」としたものであるという[3][5]。これを機にして1949年、東日に嘱託として入社。同じフロアの毎日新聞編集局には横山隆一、横山泰三、那須良輔のデスクがあり[3]、ビルのあった有楽町周辺には同様に漫画家がひしめいていた。長は小島功ら若手漫画家と交流を深めた[3]。
1955年、東日の休刊と法人解散に合わせ、小島率いる独立漫画派に入会した[3]。独立漫画派の井上洋介、久里洋二とともに一コマ漫画の可能性を探るうち、イラストレーションや絵本の仕事に「横すべり[3]」していった。1958年、「がんばれ、さるのさらんくん」(文:中川正文)で絵本作家としてデビュー[3]。
2000年ごろから癌のために入退院を繰り返した[2]。2005年6月25日、中咽頭癌のため東京都渋谷区の病院で死去[2]。享年78歳、満77歳没。
オマルのコレクターとしても知られ、著書『ブリキのオマルにまたがりて』(話の特集、のち、河出書房新社から再刊)も刊行した[6]。
受賞・叙勲歴
主要作品
- 絵本
- 漫画
- マンガ・どうわ なんじゃもんじゃ博士 『母の友』1974年4月号 - 1976年3月号 のち福音館書店
- マンガどうわ なんじゃもんじゃ博士 ハラハラ編(福音館書店)
- マンガどうわ なんじゃもんじゃ博士 ドキドキ編(福音館書店)
- マンガ・怪人シリーズ - エッセイ集『海のビー玉』に1から11まで収録。
- 挿絵
- エッセイほか
- 海のビー玉(平凡社ライブラリー)
- 長新太のチチンプイプイ旅行(平凡社)
- ユーモアの発見(岩波ジュニア新書)など。
関連項目
脚注
注
出典
外部リンク