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錦洋 幸治 |
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基礎情報 |
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四股名 |
川崎 悟→錦洋 幸治→錦洋 幸次→錦洋 幸治→川崎 悟→大峩 悟 |
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本名 |
川崎 悟 |
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生年月日 |
1950年1月3日 |
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没年月日 |
(2009-07-16) 2009年7月16日(59歳没) |
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出身 |
鹿児島県鹿屋市 |
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身長 |
178cm |
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体重 |
150kg |
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BMI |
47.34 |
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所属部屋 |
井筒部屋 - 君ヶ浜部屋 |
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得意技 |
押し、右四つ、寄り |
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成績 |
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現在の番付 |
引退 |
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最高位 |
東前頭筆頭 |
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生涯戦歴 |
446勝446敗19休(73場所) |
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幕内戦歴 |
183勝217敗5休(27場所) |
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優勝 |
十両優勝2回 幕下優勝1回 |
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賞 |
技能賞1回 |
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データ |
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初土俵 |
1965年3月場所 |
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入幕 |
1969年7月場所 |
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引退 |
1977年5月場所 |
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引退後 |
ちゃんこ料理店「大峩」(たいが)経営 |
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他の活動 |
講演、理学療法士、マッサージ士 |
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備考 |
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金星2個(大鵬1個、北の湖1個) |
2013年4月24日現在
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錦洋 幸治(にしきなだ こうじ、1950年1月3日 - 2009年7月16日)は、鹿児島県鹿屋市出身で君ヶ浜部屋(入門時は井筒部屋)に所属した大相撲力士。本名は川崎 悟(かわさき さとる)。最高位は東前頭筆頭(1972年3月場所)。現役時代の体格は178cm、150kg。得意手は押し、右四つ、寄り。
1974年7月大峩 悟(たいが さとる)に改名。
来歴
井筒親方(元前頭2・鶴ヶ嶺道芳)の勧誘を受けて、中学を卒業後に井筒部屋へ入門。1965年3月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名でもある「川崎」。初土俵の同期には、後の大関・大受や前頭・吉王山らがいる。以来、井筒部屋のホープとして期待された。
押しを武器に順調に番付を上げ、1968年11月場所では18歳で十両に昇進。1969年7月場所にて19歳で幕内昇進を果たした時(この場所より四股名を「川崎」から井筒部屋伝統の「錦洋」に改名)には、同い年の大受や貴ノ花と共に、将来の角界を背負って立つ逸材と呼ばれた。東前頭4枚目の地位で迎えた1970年3月場所では、9勝6敗と勝ち越して、生涯唯一の三賞となる技能賞を受賞。西前頭筆頭に進んだ翌5月場所では、6勝9敗と負け越したが、大鵬から初の金星を挙げている。 [1]
しかしこの頃から〈左足が流れる〉という欠陥を指摘され、本人もその矯正に努めたが、それが結果的には出足を鈍らせる事になった。また、糖尿病に罹った事で体の不調を訴える事も増え、それが三役昇進を妨げた。その後1972年3月、師匠の死後の跡目争いの渦中で、元関脇・鶴ヶ嶺昭男の君ヶ濱親方の独立に同行。同年5月より、君ヶ濱部屋所属となった。そのため、同年9月場所限りで「錦洋」の四股名も返上して本名の「川崎」に戻り、暫くしてから大峩 悟(たいが さとる)と改名した(1974年7月)。
川崎の名で取っていた時期は十両に低迷していたが、大峩に改名後再入幕した1975年3月場所では初日から6連勝するなど9勝を挙げると次の場所も勝ち越し、再び幕内上位に戻った7月場所では、3日目に北の湖から5年ぶりの金星を獲得し、復活を印象付けた。しかし間もなく、膝の故障や肝臓の病気などの影響で下位に逆戻りし、最後は幕下50枚目まで番付を落として1977年5月場所後に廃業した。廃業時の年齢は、27歳であった。
廃業後は夫人の故郷の鳥取県米子市で本場ちゃんこ料理店「大峩」を夫人と共に経営していたが、糖尿病の悪化により失明したため、故郷の鹿児島県鹿屋市に戻って再出発した。現在、店は夫人と娘が引き継ぎ経営している。
帰郷してからすぐに、持病の糖尿病の合併症から肝臓病も併発し、人工透析を余儀なくされた。だがその環境下で、鹿児島県立盲学校へ進学する事を決意。学生服を身につけ通学し、相撲部を作って指導したり、地域の学校に土俵をつくるなどをして、地域社会に貢献した。
盲学校では針灸師の資格を取得し、高等部を卒業して専攻科に進学したが、二年生の時に左眼に残っていた僅かな視力も失いかけ、左人差し指の先は血腫で切断する見込みだった為、考え抜いた末1993年11月で盲学校を退学。1993年12月から、実家近くの病院で理学療法士として勤務していた。
2001年2月には糖尿病性壊死で右膝下を切断。障害を抱えながら勤務を続け、第二の人生の歩みを人々に伝える活動として、全国各地で講演の活動も行っていた。
2009年7月16日、脳出血のため死去。享年59。
主な成績
- 通算成績:446勝446敗19休 勝率.500
- 幕内成績:183勝217敗5休 勝率.458
- 現役在位:73場所
- 幕内在位:27場所
- 三賞:1回
- 金星:2個(大鵬1個、北の湖1個)
- 各段優勝
- 十両優勝:2回(1969年5月場所・1974年3月場所)
- 幕下優勝:1回(1968年9月場所)
場所別成績
錦洋幸治(大峩悟)
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一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
1965年 (昭和40年) |
x |
(前相撲) |
東序ノ口21枚目 3–4 |
東序ノ口10枚目 6–1 |
西序二段83枚目 4–3 |
西序二段45枚目 4–3 |
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1966年 (昭和41年) |
西序二段12枚目 3–4 |
西序二段24枚目 4–3 |
東序二段3枚目 6–1 |
東三段目46枚目 4–3 |
東三段目24枚目 4–3 |
東幕下99枚目 3–4 |
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1967年 (昭和42年) |
西三段目9枚目 4–3 |
西幕下92枚目 4–3 |
西三段目21枚目 4–3[2] |
東三段目6枚目 5–2 |
東幕下44枚目 5–2 |
西幕下27枚目 5–2 |
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1968年 (昭和43年) |
西幕下16枚目 5–2 |
東幕下11枚目 5–2 |
西幕下3枚目 4–3 |
西幕下筆頭 4–3 |
東幕下筆頭 優勝 7–0 |
東十両6枚目 6–9 |
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1969年 (昭和44年) |
西十両8枚目 6–9 |
西十両12枚目 9–6 |
西十両8枚目 優勝 12–3 |
西前頭12枚目 9–6 |
西前頭6枚目 7–8 |
西前頭7枚目 8–7 |
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1970年 (昭和45年) |
東前頭4枚目 7–8 |
東前頭4枚目 9–6 技 |
西前頭筆頭 6–9 ★ |
西前頭2枚目 4–11 |
東前頭6枚目 5–10 |
東前頭11枚目 8–7 |
1971年 (昭和46年) |
東前頭9枚目 2–8–5[3] |
西十両筆頭 10–5 |
東前頭10枚目 8–7 |
東前頭5枚目 6–9 |
西前頭8枚目 10–5 |
西前頭筆頭 7–8 |
1972年 (昭和47年) |
東前頭2枚目 8–7 |
東前頭筆頭 5–10 |
西前頭6枚目 5–10 |
西前頭11枚目 5–10 |
東十両2枚目 6–9 |
西十両4枚目 9–6 |
1973年 (昭和48年) |
東十両筆頭 5–10 |
東十両8枚目 8–7 |
東十両6枚目 8–7 |
東十両4枚目 6–9 |
東十両9枚目 10–5 |
東十両4枚目 6–9 |
1974年 (昭和49年) |
西十両8枚目 7–8 |
東十両10枚目 優勝 12–3 |
西十両2枚目 6–9 |
西十両9枚目 8–7 |
西十両4枚目 7–8 |
西十両6枚目 8–7 |
1975年 (昭和50年) |
西十両3枚目 10–5 |
西前頭13枚目 9–6 |
東前頭8枚目 9–6 |
東前頭4枚目 7–8 ★ |
東前頭5枚目 8–7 |
西前頭3枚目 5–10 |
1976年 (昭和51年) |
東前頭8枚目 8–7 |
東前頭6枚目 5–10 |
西前頭11枚目 8–7 |
西前頭8枚目 5–10 |
東十両筆頭 4–11 |
東十両7枚目 6–9 |
1977年 (昭和52年) |
東十両10枚目 1–14 |
西幕下15枚目 休場 0–0–7 |
西幕下50枚目 引退 0–0–7 |
x |
x |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
レコード
- 「両国気質」(c/w:流れ花ブルース)(大峩悟/三船浪/鶴ノ海/君ヶ嶺/鶴ヶ浜 名義)
関連項目
脚注
- ^ 最高位が平幕の力士に限れば20歳4ヶ月での初金星は最年少記録となる。
- ^ この場所は番付削減のために勝ち越しても地位が下がった
- ^ 左膝関節筋損傷・右腕関節亜脱臼により10日目から途中休場
外部リンク