鉄道院基本形客車(てつどういんきほんがたきゃくしゃ)は、日本国有鉄道の前身である鉄道院が1910年から1917年にかけて製造した、鉄道国有化後最初の制式木造ボギー式客車形式群である。
なお、この名称は国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、1910年より製造された6810形(のちの12000形)と同様の寸法・構造で1928年の称号改正において主として10000番台の形式称号を与えられた客車群を総称する、鉄道院部内での呼称である。
1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて順次実施された私設鉄道17社の国有化で1908年(明治41年)に帝国鉄道庁が設置されたが、設置時点で各社局から承継した客車約4,900両のうち、ボギー車は2軸・3軸ボギー車を合わせても1,000両に満たず、4,000両近い小型の2軸・3軸車を早急に大型のボギー車で代替することが求められた。ところが、鉄道庁設立時点では増備される客車について設計の統一が図られず、国有化前の設計そのままでの車両製造が各社から承継した各工場で続けられていた。
当然ながらこれは標準化による保守部品や取扱の統一という見地では好ましいものではなく、鉄道庁と鉄道局が統合され鉄道院が設置されるにあたり、新規に客車の標準設計を実施することが求められた。
そこで、これに応えるものとして「客車郵便車手荷物車工事仕様書」として客車製造についての統一基準が1910年(明治43年)8月に制定された[1]。
この仕様書に従う形で、国有化後初の制式客車として計画・製造されたのが6810形(三等車)を基幹形式とする本系列である。
その基本設計は鉄道作業局時代に直営の新橋工場が製造したボギー客車群[2]に多くを負っているが、ベルト駆動方式の車軸発電機で発電し、床下中央に吊り下げられた蓄電池に蓄電された電力を電源とする電灯を室内灯として標準採用するなど、国有化された私鉄各社や鉄道作業局で試行錯誤が繰り返されていた様々な新技術や構造も取捨選択の上でいくつか盛り込まれており、また、車体寸法についても従来より大型化が図られていた。
以後の国鉄客車の標準規格の多くがここで確定し輸送計画上の基準ともなったことから、これらは基本形客車と呼ばれた。
国鉄客車の基幹系列の一つとして、1940年代後半まで重用されていたが、1949年(昭和24年)より製造が開始された鋼体化改造車60系の種車あるいは台枠の切継用資材として利用されたため、以後は急速にその数を減じ、1950年代後半までにほぼ全車が廃車解体された。ただし、一部の車両は救援車に改造されたほか、島原鉄道など地方民鉄に売却されたものもあったが、これらも1960年代前半に姿を消した。
当時の車両限界に従い、最大幅2.7m、車体幅2.6mの木造車体を備える、車体長17mの2軸(4輪)ボギー車、あるいは 20m級の3軸(6輪)ボギー車で、それぞれ基本2AB(2 Axis Bogey:2軸ボギーの略)車と基本3AB(3 Axis Bogey:3軸ボギーの略)車と呼称された。
車体構造は国有化前に鉄道作業局新橋工場が設計・製造していた優等客車のそれを踏襲しているが、20m級の基本3AB車は東海道・山陽本線などの幹線で使用される一部の優等車に限られ、大半は17m級の基本2AB車として製造された。
台枠は1911年(明治44年)度予算で新橋工場と神戸工場で製造された優等車24両と、遅れて翌年に新橋工場で製造された優等車1両の合計25両よりなる19m級3AB車[3]などの例外を除き構造が規格化された新規設計品を採用しており、17m級がUF11、20m級がUF41を呼称する[4]。これらは台車の側受が明治44年式6輪ボギー以降で左右2か所として統一されたこともあり、車体長の相違による全長以外の基本的な設計が各形式用で共通化されている[5]点が大きな特徴である。
いずれの形式についても、展望車・特別車・職用車の展望デッキを除いて車端のデッキ部に客用扉を設けた密閉式デッキとなっており、三面折れ妻構造の妻面には左右にガラス窓が入り、屋根は寝台の都合で室内空間確保の見地から丸屋根とすることが求められた一部の優等寝台車[6]を除き、いわゆる二重屋根(レイルロードルーフあるいはダブルルーフ)で、屋根の上層と下層の間に明かり取り窓を設けてある。
室内灯は前述の通り車軸発電機と蓄電池による電灯が標準採用され、ガス灯や油灯などを用いていた在来型客車の大半とは一線を画する、安定した室内照度の確保が実現した。
2軸ボギー台車としては、鉄道作業局時代末期に新橋工場で設計された明治41年式4輪ボギー台車と呼ばれるイコライザー台車[7]を基本としつつ軸距を1フィート延伸して8フィート(2,438mm)とした、溝形鋼を側枠に使用するイコライザー台車である明治42年式4輪ボギー台車[8]と、これを改良した明治44年式4輪ボギー台車[9]、更に側枠を山形鋼あるいは球山形鋼に変更した明治45年式4輪ボギー台車[10]が標準台車として採用された[11]。
これに対し、主に優等車用の3軸ボギー台車は、初年度製造分については台車設計が間に合わず、鉄道作業局時代最後の客車用3軸ボギー台車である明治39年式6輪ボギーを装着して竣工しているが、それ以降は、これを基本として軸距を延伸[12]し、それによって得られたスペースを活用してブレーキシューを両抱き式に変更[13]、さらに2組の揺れ枕を梁で結んで側受を第2軸直上の外側に出した明治44年式6輪ボギー台車[14]が採用され、これが細部に改良を施されつつ継続採用されている[15]。
また、上述の台枠と同様、1911年度予算で新橋工場と神戸工場にて製造された基本形3AB車の内、25両についてはJ.G.ブリル社製3軸ボギー台車[16]を装着して竣工しており、その多くは第二次世界大戦後までそのまま使用されている。
当時標準の真空ブレーキと、手ブレーキ[17]が併用されたが、1921年後半以降はウェスティングハウス・エア・ブレーキ社(WABCO)製P三動弁による自動空気ブレーキとの併用[18]が開始された。国鉄での自動空気ブレーキの整備が完了した1930年代初頭までに真空ブレーキの撤去が順次実施され、全車とも自動空気ブレーキ装備となって安全性が向上している。
当初はねじ式連結器を使用したが、1925年7月に全車とも自動連結器へ交換された。
本項では各車の新造時の形式を基準として、形式分類・解説を行う。なお車両称号規定の変遷については、国鉄客車の車両形式を参照されたい。
北海道炭礦鉄道 - 日本鉄道 - 官設鉄道 - 関西鉄道 - 山陽鉄道 - 九州鉄道 - 九州鉄道ブリル客車(或る列車)
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12系
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