野村 貞(のむら ただし[1]、1845年2月22日(弘化2年1月16日) - 1899年(明治32年)5月4日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、海軍軍人(海軍少将)。
日清戦争で武勲を挙げ、越後長岡藩出身の最初の海軍将官となった。
長岡藩家老・河合継之助は、野村の従兄である[1]。また、連合艦隊司令長官・山本五十六は、野村の甥である(野村の妻である「はる」[1]は、高野貞吉〈山本五十六の実父〉の妹)[2]。
人物・来歴
父は、長岡藩用人[4]、長岡藩軍事奉行[5]を務めた萩原要人[1]。
奥羽越列藩同盟に加わった長岡藩の一員として戊辰戦争に従軍し、砲軍司令士として砲兵隊を率い武名があった。17歳の時に野村氏を嗣ぐが、「野村」へ改姓したのは戊辰戦争後であった。
維新後は近藤塾(のちの攻玉社)に在籍し海軍兵学寮に通学したが、通学生が廃止されたことに伴い退寮扱いとなる[6]。しかし教授、助教に次ぐ教員職である少得業生となり、兵学寮において句読手伝い、算術教授の業務に就いた。7か月後、野村は「龍驤」乗組士官(砲術)を命ぜられ、海軍将校の道を歩むこととなった。
1871年(明治4年)に海軍中尉に任官。翌年には大尉へ進み、「日進」副長、東海水兵本営副長を歴任。「日進」副長時代は西南戦争に従軍している[7]。1881年(明治14年)2月に少佐へ進級。少佐、中佐の時期は造兵廠長職を除き海上勤務に終始し、「孟春」、「比叡」、「清輝」、「筑紫」、「大和」、「筑波」、「富士山」と7艦で艦長を務めた。
野村は豪傑肌な一面をもち、「清輝」艦長時代には、台風に遭遇し疲労した乗員に対し、「総員死に方用意」の号令をかけ士気を回復させた逸話は海軍部内で有名であった[8]。「筑波」艦長としては遠洋航海で海兵14期(鈴木貫太郎、佐藤鉄太郎クラス)を指導している。この航海では分隊長・加藤友三郎が鯨に向けて無断で大砲を発射し、野村にしかられた逸話がある。
1890年(明治23年)に大佐となり、佐世保鎮守府参謀長を経て、「松島」艦長に就任。次いで「高千穂」艦長として日清戦争に参戦。黄海海戦において坪井航三率いる第一遊撃隊の1艦として戦い、抜群の武功と評価された武勲を挙げた[9]。第一遊撃隊は4艦で構成され、同僚の艦長は河原要一、東郷平八郎、上村彦之丞の三名、八代六郎、岡田啓介は「高千穂」艦長時代の部下である[10]。
戦後は竹敷要港部の初代司令官となり、明治29年11月、少将へ進級。横須賀軍港司令官、常備艦隊司令官と司令官職を歴任したが、呉鎮艦隊司令官在職中に死去した。墓所は青山霊園にある。
野村が死去した際、郷里の長岡中学に在学していたのが、後年の連合艦隊司令長官・山本五十六である。野村の妻は山本の実父・高野貞吉の妹[6]という縁があり、野村の存在は山本の海軍志望に影響を与えたとされる。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
脚注
参考文献
軍職
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先代 (設置)
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竹敷要港部司令官 初代:1896年4月1日 - 1897年12月27日
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次代 有馬新一
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