河原 要一(かわはら よういち、1850年7月7日(嘉永3年5月28日) - 1926年(大正15年)12月17日)は、日本の武士(薩摩藩士)、海軍軍人。海軍兵学校長。官位は海軍中将正四位勲三等功四級。
経歴
薩摩藩士・河原寿助(魅堂)の息子として生まれる。1871年(明治4年)9月、海軍兵学寮に入り、1874年(明治7年)11月、同校(2期)を卒業し、海軍少尉補に任官。その後、ドイツに派遣され、独巡洋艦「ヴィネタ (Vineta)」「ライプツィヒ (Leipzig)」に乗艦し、その間の1877年(明治10年)6月、海軍少尉に任官。翌1878年(明治11年)5月に帰国した。
1883年(明治16年)11月、「筑紫」副長となり、横須賀屯営在勤、「高千穂」回航委員長を経て、1886年(明治19年)4月、海軍少佐に昇進し、同年5月、「高千穂」副長に就任。同年12月、「清輝」艦長となり、「大和」艦長心得、海軍参謀部第1課員を経て、1890年(明治23年)9月、海軍大佐に進級し海軍参謀部出仕となった。
1890年10月、イギリス公使館付武官に発令され、兼造船造兵監督官を経て、防護巡洋艦「吉野」の回航委員長を務め、1893年(明治26年)6月、「吉野」艦長に就任。日清戦争時、同艦長として出征し、坪井航三麾下として豊島沖海戦、黄海海戦などに参戦した。
1895年(明治28年)6月、軍令部第2部長となり、1897年(明治30年)12月、海軍少将に昇進し常備艦隊司令官となった。1899年(明治32年)1月、海軍兵学校長に就任。1903年(明治36年)7月、海軍将官会議議員となり、同年9月、海軍中将に進むと同時に待命。翌1904年(明治37年)9月に休職し、1906年(明治39年)9月5日、予備役に編入となった[1]。1913年(大正2年)5月28日、後備役となる[2]。1915年(大正4年)5月28日に退役した[3]。
親族
千葉縣長生郡一松村八九二
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
脚注
- ^ 『官報』第6958号、明治39年9月6日。
- ^ 『官報』第248号、大正2年5月29日。
- ^ 『官報』第846号、大正4年5月29日。
- ^ 人事興信録データベース第四版
- ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017, 「第一章 松方正義」の項
- ^ 人事興信録データベース第8版
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第5644号「叙任及辞令」1902年5月1日。
- ^ 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
- ^ 『官報』第4298号「叙任及辞令」1926年12月20日。
参考文献
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。