貝塚 茂樹[1](かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。
1904年(明治37年)、東京で地質学者・小川琢治の次男として生まれた。旧制京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学。1928年3月に卒業。同年4月、同大学院文学研究科に進学。1930年3月に修士課程を修了。1932年5月に博士後期課程を退学。
同1932年5月、東方文化学院京都研究所研究員に採用された。1938年4月、研究所の改組に伴い、以降東方文化研究所研究員。
戦後の1949年4月、研究所が京都大学に包摂となる改組に伴い、京都大学人文科学研究所教授となった。新研究所発足時の所長は安部健夫であったが、同年10月、改組時の京都大学人文科学研究所初代所長に就任(〜1955年3月)[2]。1958年9月、コロンビア大学研究員。1961年11月、学位論文『甲骨文時代区分の基礎的研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得[3]。1968年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。
学界では、1981年9月より東方学会会長を務めた。1987年に死去
従前の文献学的な中国古代史の研究に対して、甲骨文字や金文に代表される出土資料に着目した研究方法を日本で初めて提唱した[4]。戦後、中国やアメリカとの文化的な交流にも尽力し、学術および文化の向上に大きく貢献した。加えて東洋史・日中の比較文化・中国の近現代史にも関心が高く、その方面でも研究を推進し著作の多くが重版されている。その旧蔵書のうち約3万冊は久保惣株式会社に買い上げられ、現在は和泉市久保惣記念美術館が所蔵している[5]。