談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。
神仏分離以前は多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)という有力な寺院であった[1]。なお、桜井市歴史文化構想では拝所としてつくられた講堂を妙楽寺とし、歴史的記述では「多武峯」を用いている[1]。本殿とその廻廊は14世紀中葉以前には「聖霊院」と称されたが、15世紀末以後には「護国院」が用いられ、このほかに大織冠社、談山社、多武峰本社とも称された[2]。現在は桜と紅葉の名所として知られる。
『多武峰略記』によると藤原氏の祖である中臣鎌足の死後、摂津国島下郡阿威山(参照:阿武山古墳)に葬られていたが、鎌足の長子で僧の定恵が唐から帰朝すると多武峯(多武峰)に改葬して墓の上に十三重塔を造立した[1][2]。この多武峯は鎌足が生前に「撥乱反正之謀」(乱れた世を治めて正しい世にかえす)を談じた「談岑」の故地にあたる[1]。十三重塔の造立から数年後に三間四面の堂を建立して妙楽寺としたのが多武峯の発祥である[1]。この初期に鎌足の御影像を安置するための「方三丈御殿」(『多武峰略記』の異本である西宮本では『方三尺御殿』)も創建された[2]。
昌泰元年(898年)に初めて当社の裏山の御破裂山が鳴動する。御破裂山は国や藤原氏に大きな災いが起こる際にその前兆として鳴動すると言い伝えられるようになり、過去には37回御破裂があり、そのたびに寺から朝廷に報告され、朝廷からは告文使(こくもんし)が派遣され平穏を祈ったという[1]。
『多武峰略記』によると延喜14年(914年)には本殿が改造された(『多武峰略記』の異本である西宮本では延喜17年)[2]。
延長4年(926年)、国内最古となる惣社を創建し、「談山権現」の勅号が下賜される。これにより、妙楽寺、聖霊院、惣社が神仏習合して一体化していった。
その後、比叡山延暦寺で出家受戒した実性が多武峰の座主に就き、天暦10年(956年)に比叡山延暦寺の末寺となった[2]。
天禄元年(970年)には摂政藤原伊尹が三昧堂(現・権殿)を建立している。
平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げたが、当社・妙楽寺は天台宗の寺院であり、藤原氏の氏寺である法相宗の興福寺、および藤原氏の氏神である春日大社との仲は良くなかった。
特に延暦寺の末寺となって以降は興福寺との関係が悪化し、繰り返し興福寺の焼き討ちにあった[2]。『多武峰略記』によると、まず永保元年(1081年)3月と天仁元年(1108年)9月に興福寺の焼き討ちにあっている[2]。天仁元年(1108年)9月には浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂に加え、近くの鹿路の村々が悉く興福寺の僧兵に焼かれた。
その後、久安5年(1149年)に本殿造替のため仮殿に遷宮し、仁平元年(1151年)に正遷宮が行われた[2]。
しかし、承安3年(1173年)6月に再び興福寺衆徒の焼き討ちにあっている[2]。
平安時代末期には妙楽寺は青蓮院の末寺となり、また、妙楽寺の南方に冬野城が築かれた。
承元2年(1208年)2月には金峰山寺の衆徒による焼き討ちを受けた[2]。
さらに安貞元年(1227年)8月、そして安貞2年(1228年)4月にも興福寺の焼き討ちを受けている[2]。また、大和国の国衆も十市氏、越智氏は妙楽寺側に付き、楢原氏、布施氏、北隅氏らは興福寺側に付いて合戦を繰り返していた。
鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺第2世孤雲懐奘大和尚が妙楽寺に参学している。
観応2年(1351年)11月には失火により全焼している[2]。
永享元年(1429年)には筒井・越智両党の争いがおこり、越智維通らが吉野山や多武峯に逃れた[1](大和永享の乱)。さらに足利義教と将軍職を争って敗れた弟の大覚寺義昭が越智と結び、吉野山や多武峯の衆徒を集めて立てこもり幕府軍と対峙した[1]。永享10年(1438年)8月、幕府の細川・斯波・山名などの主力軍が多武峯に攻め寄せ全山焼失した[1]。しかし、大織冠尊像(藤原鎌足像)は事前に橘寺に避難させていたので焼失は免れ、嘉吉元年(1441年)9月に還御している[1]。
応仁3年(1469年)2月、寺内での紛争により焼失する[2]。
永正3年(1506年)7月、管領細川政元は赤沢朝経に大和国を攻撃させ、同年9月には多武峯まで攻め寄せ本殿を焼失した[1][2](大和国一揆)。
『談山神社文書』によると永正3年に兵火により本殿を焼失した後、永正17年(1520年)に本殿は再建され正遷宮が行われた[2]。また永禄2年(1559年)には本殿造替が行われている[2]。
天正13年(1585年)、豊臣秀長が大和郡山に入るのに先立ち、多武峯の僧徒に対して武器の提出が命じられた(刀狩)[1]。これにより衆徒は離散し、老衆や行人と呼ばれる僧侶の一部のみが残ることとなった[1]。
また、多武峯に対しては6千石の寺領を与えるかわりに郡山城下に寺を移す政策がとられ、天正15年(1587年)に郡山城下に社殿が完成した[1]。
妙楽寺は郡山に寺基を移し、新多武峰、新峰、新寺と呼ばれるようになった。しかし、一方で大織冠尊像はそのまま多武峰に残り、こちらは本峰、本寺、古寺と呼ばれるようになって妙楽寺は分裂してしまった。だが、豊臣秀長の体調が悪くなっていったために、その回復祈願のこともあって天正16年(1588年)4月、大織冠尊像も郡山に遷座させられた。
しかし、郡山遷宮後、秀長の体調悪化や郡山城中での鳴動など奇怪な出来事が起こるようになり、大織冠のたたりであるとして天正18年(1590年)12月28日に大織冠の霊像はもとの多武峯に帰座した[1]。
その後も旧寺と新寺の争いが続いていたが、慶長8年(1603年)に徳川家康の力添えを得て3,000石余の寺領のほか山林100石が認められた[1]。
江戸時代最初の本殿造営は元和5年(1619年)に行われ、元和の造替時の旧本殿は談山神社摂社東殿となった(昭和55年解体修理時の発見墨書や改造痕跡による)[2]。
以後、本殿造替のたびに旧本殿は移建されており、寛文8年(1668年)の本殿造替では旧本殿は末社惣社本殿(『談山神社文書』298号)[2]、享保19年(1734年)の本殿造替では旧本殿は百済寺本堂(背面等が入母屋造に改造されている)[2]、寛政8年(1796年)の本殿造替では旧本殿は東大寺東南院持仏堂となっている[2]。このほか嘉永3年(1850年)にも本殿造替が行われている[2]。
幕末には子院33坊、雑役等を担う承仕坊6坊があり、寺領も6,000石あった[3]。
1869年(明治2年)2月に神仏分離令により僧達は還俗して神職となり、廃仏毀釈が行われて妙楽寺は廃された。神仏分離により妙楽寺境内にあった仏堂等は改称あるいは破却されたという[2]。6月30日には談山神社と改称している。
談山神社の中心となる本殿、拝殿、東西透廊等は、神仏分離以前の妙楽寺の一部の建物にあたるが、その他の寺内の仏教建築や鎮守社とは区別され特別な名称で呼ばれていた[2]。また妙楽寺の経堂は浄楽寺(奈良県橿原市)の本堂として移築され遺構となっている[4]。
1874年(明治7年)12月22日に近代社格制度のもと別格官幣社に列せられた。
本尊であった阿弥陀三尊像は1883年(明治16年)に安倍文殊院に移されてなぜか釈迦三尊像とされてしまった。当社には今も残る唯一の仏像として如意輪観音像が所蔵されている(通常は非公開の秘仏)[5]。
拝殿や十三重塔は戦前に何度か日本銀行券の図案に採用されたことがある(乙20円券など)。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
摂社
末社
建造物
美術工芸品
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財の名称は、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。