西村 幸祐(にしむら こうゆう、1952年〈昭和27年〉 - )は、日本の批評家[3]、作家[3]、ジャーナリスト[3]。
1980年代後半から、F1、サッカー等のスポーツを中心とした作家、ジャーナリストとしての活動を開始し、2002年の日韓ワールドカップの取材を契機に拉致問題や歴史問題などに関する執筆活動を行う[4]。2006年から2011年まで雑誌『表現者』編集委員、2007年12月に雑誌『撃論ムック』、2011年4月に雑誌『JAPANISM』をそれぞれ創刊、編集長を歴任[5]。戦略情報研究所客員研究員[6][7]。一般社団法人アジア自由民主連帯協議会副会長[8]。2017年度~2021年度関東学院大学国際文化学部非常勤講師[9]。2018年度岐阜女子大学南アジア研究センター客員教授[10]。
来歴
1952年〈昭和27年〉2月1日、西村五洲と明子との間に長男として東京に生まれる。父西村五洲[11]は、歴史学者の西村眞次の五男で、文化人類学者西村朝日太郎の弟。フジテレビ編成局次長を務め、独立してマーケティング戦略企業ユニマックスを設立した[12]。フジテレビ映画部長時代に、日本初の連続アニメ映画「鉄腕アトム」をプロデュースした[13]。従兄に元沖縄県知事の稲嶺恵一 が、伯父に琉球石油創立者で参議院議員だった稲嶺一郎がいる。
東京都立富士高等学校卒業、慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻過程中退[14]。大学在学中から第7次『三田文学』の編集に携わる[1]。西尾幹二によれば、当時学生だった西村が企画した「三田文学」の三島由紀夫の特集「三島死後5年と戦後30年」で、西尾と桶谷秀昭の対談を企画・実現している[15]。その後、『ニュー・ミュージック・マガジン』(現『ミュージック・マガジン』)、編集、レコーディング・ディレクター、コピーライターの仕事に携わった。慶應義塾大学文学部中退後に就職したニューミュージック・マガジン社では当時FM東京が放送していた、中村とうようがDJと務めるミッドナイトマガジンという深夜番組の制作に携わった。その後転職した文化放送が設立したレコード会社ラジオシティ・レコードでアシスタントディレクターとディレクターを務めた。この時知り合った作曲家のすぎやまこういちとは、29年後の2007年に慰安婦問題の意見広告をワシントン・ポストに出す制作スタッフとして再会する。また、コピーライター時代の1988年には、福岡県福岡市天神再開発プロジェクトだったイムズのCI計画とネーミングを株式会社スペースの 業務として担当した。
同時に1980年代後半からスポーツをテーマに作家、ジャーナリストとして活動を開始[1]し、1989年より産経新聞F1特集の企画・執筆を担当。F1取材で世界を飛び回っていた[16]。
1990年代前半はほぼF1をテーマとした取材、執筆活動に専念していたが、1993年(平成5年)のワールドカップ予選からF1と並行してサッカー取材を開始。1994年(平成6年)、アイルトン・セナの事故死をきっかけに、取材対象をサッカーへ移行した[要出典]。
1995年、雑誌「2002倶楽部」(ビクター)をプロデュース、産経新聞で「2002年W杯を考えよう」シリーズのインタビュアーを1年間務める。「人物発見伝・三島由紀夫」を「メンズ・ノンノ」(集英社)に発表。1996年、日本初のサッカーオンラインマガジン「2002JAPAN」(後の「2002CLUB」[2])編集長に就任し、00 年「サッカーウイナーズ」(新潮社)をプロデュース、「Number」に「白からの出発—岡田武史とコンサドーレ札幌」を発表。2002年にカブール市民が日韓W杯をテレビ観戦する「2002CLUB アフガンプロジェクト」を企画、アフガニスタンでのW杯パブリック・ビューイングを実現させた。
2002年(平成14年)の日韓ワールドカップや北朝鮮による日本人拉致問題を契機に、歴史認識問題やメディア批判、安全保障問題などに執筆分野を変更[1]。『諸君!』や『正論』、『WiLL』、『Voice』など論壇誌や、『SAPIO』、『リベラルタイム』など時事雑誌への執筆活動を開始。主に"特定アジア"における反日や、朝日新聞など大手メディアへの批判も展開。このほか、先の三島由紀夫の評伝や、1991年に『週刊少年ジャンプ』でF1を題材にした漫画「Fの閃光」の原作を連載、ゴルフをテーマにした海外ミステリーの翻訳などを手掛けていた。
サブカル(音楽・文学)からスポーツ(F1・サッカー)、政治(北朝鮮による日本人拉致問題・反日・人権擁護法案など)・マスコミ・インターネット言論(2ちゃんねる・ブログ)・チベット問題・ウイグル問題と幅広いジャンルを扱い、2ちゃんねるやブロガーの活動を肯定的に評価している。また、Chinaのことをシナと呼び、渡辺昇一や呉智英、高山正之のように「支那」あるいは「シナ」と表記しているが、固有名詞の「中国共産党」を使用する場合はChinaを中国と表記している。2006年(平成18年)からはオークラ出版「#撃論ムック」シリーズ(2010年12月休刊)を創刊して責任編集者となる。2007年(平成19年)8月より、文芸言論誌『表現者』の編集委員を務める。
2008年(平成20年)7月には「チベット自由人権日本100人委員会」のメンバーとなり、7月30日に開催された発足記念シンポジウムに参加した。2009年(平成21年)7月13日、海外特派員協会で、ウイグル人のイリハム・マハムティ、チベット人のペマ・ギャルポ、モンゴル人のリーガー・スチェント、元中国人で日本に帰化した石平と共に記者会見を行い、「ウイグル自由人権アジア委員会」の名で「中国によるウイグル弾圧への緊急声明」を発表[17]。2010年(平成22年)2月28日、すぎやまこういち・三橋貴明と共に、「日本人の日本人による日本人のためのメディア」として、ブログを集積し、既存メディア監視を主な目的とする情報サイト「メディア・パトロール・ジャパン」を開設し、編集長に就任した[18]。その後、休止している。
2011年(平成23年)には『ジャパニズム』の創刊に関わり、第3号まで責任編集者を務めた。同年11月26日、「一般社団法人アジア自由民主連帯協議会」副会長に就任。2012年(平成24年)7月16日、同日から翌17日にかけて陸上自衛隊第1師団が東京直下型地震を想定した訓練を実施する際、東京都の特別区23区のうち16区が自衛隊による区施設等の利用を拒否したとのツイートをおこなう[19]。7月18日には日本文化チャンネル桜『ニュースの読み方』にて、自身の「スクープ」として発表した[20]。産経新聞が7月23日付で報じたほぼ同内容(協力を拒否したのは11区としている)の記事については、自身のスクープを後追い報道したものであると述べた[20][21]。名指しされた11区は産経新聞に対し「報道内容は事実無根」との抗議をおこない、7月25日に産経新聞は記事内容が誤報であったことを認めて謝罪・訂正をおこなった[20]。西村本人は、誤報でないという立場を取っている[22]。
2013年(平成25年)11月19日、第185回国会衆議院の国家安全保障に関する特別委員会に参考人として招致され、「特定秘密の保護に関する法律案(185国会閣9)・行政機関の保有する情報の公開に関する法律等の一部を改正する法律案(185国会衆1)」(通称・特定秘密保護法案)について意見陳述を行った[23]。西村を参考人の意見陳述で招致したのは日本維新の会であった[24]。評論家の石平は西村との共著『「反日」の敗北』の中で、「特定秘密保護法をめぐる攻防が、それこそ戦後体制を守ろうとする左翼のマスコミが総力を結集してきたことをあらわしています。例えば、朝日新聞は掻き集めることのできるすべてを総動員して安倍政権と戦ったわけです」[25]と述べ、西村は「朝日新聞の誤算は昔と同じやり方が通用しなかったことです」」[26]と応じた。
主張
歴史認識問題について
- 2004年(平成16年)12月刊行の『「反日」の構造』(PHP研究所)に於いて、「大東亜戦争を客体化する試みこそ歴史認識の最初のステップであるはずなのだが、戦前の皇国史観の裏返しとしてのマルクス主義史観が戦後日本の歴史研究の潮流になり、大東亜戦争を客観的に歴史の文脈の中で相対化する精緻な研究が疎かにされてきた」[27]と述べている。また、大東亜戦争という言葉について、「日本人の歴史学者が〈大東亜戦争〉という言葉を使わないことが全てを物語っている。結局、彼らは「閉された言語空間」から自由になれないまま〈閉ざされた思考空間〉での認識に終始している。占領下六年八ヵ月の位相転換と、それによってもたらされる戦後に対する視座の変革のためには、まず〈大東亜戦争〉という言葉を使うことで、閉ざされたドームの膜を切り裂かなければならない。占領期にアメリカに奪われた言葉としてまず挙げられるのが、〈大東亜戦争〉という言葉であり、戦争スローガンにもなっていた〈八紘一宇〉という言葉も抹殺された。いずれにしても、日本人が主体的に過去を引き受けるためには、どうしても〈大東亜戦争〉という言葉を使わなければならないのだ」」[28]と述べている。
- 2007年(平成19年)6月14日の米国紙ワシントン・ポストに「従軍慰安婦問題」の日本軍の強制連行を否定し、アメリカ合衆国下院121号決議の完全撤回を求める意見広告「THE FACTS」を出稿した歴史事実委員会のメンバーとなった。
- 2012年(平成24年)11月6日、米国ニュージャージー州の地方紙「スター・レッジャー」に歴史事実委員会のメンバーとして、米紙「ニューヨークタイムズ」に出された韓国人による意見広告とニューヨーク市タイムズスクエアに掲出された広告ボードに反論する慰安婦の強制連行はないとする意見広告を掲載した。この年の「歴史事実委員会」は、青山繁晴、櫻井よしこ、すぎやまこういち、藤岡信勝、西村の5名で構成されている。
- 2014年(平成26年)4月、訪日した米国人テキサス親父ことトニー・マラーノの講演会に参加。米国に設置された慰安婦像の撤去のための署名活動を行ったマラーノに謝意を示し、問題解決に向けて協力していく旨を述べた[29][30]。
韓国について
- 『WiLL』2014年4月号への寄稿の中で、「古来、朝鮮が歴史的にそうであったように、韓国は日韓条約で国交樹立後は日本に事大し続け、九〇年代の金永三政権からその軸足を移行し始め、盧武鉉政権の混乱後は完全に支那へ足を向け、朴槿恵政権で支那への事大が明確になった。つまり、一八九五年の日清戦争後に日本が華夷秩序を破壊して朝鮮を支那の冊封から逃れさせ、独立させたにもかかわらず、現在の韓国は二十一世紀になって新たな中国共産党が支配する支那による冊封を受けようと決断したのである」と述べている[31]。
日米関係について
- 『WiLL』2014年7月号への寄稿の中で、「第二次安倍政権発足後の一年五カ月を振り返ると、日米関係の百六十年間の歴史上でかつてなかった新しい局面に両国が立入ったことがよく分かる。奇しくも今年は、嘉永七年(一八五四)にペリーが黒船による砲艦外交で日本を開国させ、日米和親条約が締結されてからちょうど百六十年目にあたる。日米関係はこのように、わが国と西洋の関係を象徴するように最初の一歩が武力による威嚇から始まった。そんな日米関係が、いよいよ新しいフェイズに入ったと思わざるを得ない出来事が立て続けに起きている。」とし、「現在の日米関係の新しいフェイズとは、具体的には、いい悪いを別にしてはっきり現象面に表れているのが、日本の米国離れである。それは、スポーツを除く文化、芸能、サブカルチャーに関する、日本人のここ十年の傾向になった米国離れだけでなく、政治的な親和性もこの数年で急速に失われたことも含めてである。現在の課題である河野談話問題にどう決着をつけるのかというポイントも、実はそこにある。もちろん、靖国参拝への米国からの雑音もそれに含まれている。ペリー来航による日本の開国後、米国は幕末の日本の国力や日本人の民度に驚嘆し、露骨に侵略的な態度を見せることはなかった。明治維新後も、米国はハワイ侵略や米西戦争という厄介な難題を抱えていた事情もあり、日露戦争終了後までは日本と協調路線を取った。日米関係の転機は日露戦争後に訪れるが、大きく事態が変わるのは十年後の第一次大戦後だった。」と述べた[32]。
出演
TV(インターネット放送も含めて)
- 日本文化チャンネル桜[注 1]
- 桜プロジェクト(キャスター、水曜日、不定期)
- 報道ワイド日本 Weekend(キャスター、金曜日、不定期)
- 日本よ、今...「闘論!倒論!討論!」(不定期)
インターネット放送
- ChannelAJER(小野盛司主宰「日本経済復活の会」) 「シリーズ・ウイークエンド西村」
- 櫻井よしこの「言論テレビ 櫻LIVE」
著書
F1・サッカー関連
評論関連
共著
漫画原作
翻訳
責任編集
撃論ムック
2006年(平成18年)12月に「コミックオピニオン誌」としてオークラ出版から1号のみ(これは山野車輪が担当)、以後は2010年(平成22年)12月まで別冊ムックだけが30冊刊行された『撃論』シリーズで責任編集を担当した。2010年(平成22年)12月27日発売の「反日マスコミの真実2011」の編集後記で休刊を宣言した。以後「―ムック」は本誌に集約される。
ジャパニズム
2011年(平成23年)より青林堂で、『撃論ムック』を継承する雑誌『ジャパニズム』(題字は「JAPANISM」)の創刊に関わり、4月26日発売の創刊号より8月26日発売の03号まで責任編集者を務めた。なお、出版社が異なるにもかかわらず“継承”出来た理由は不明。
- 『「ジャパニズム」01』青林堂、2011年4月26日。ISBN 978-4-7926-0434-9。
- 『「ジャパニズム」02』青林堂、2011年6月25日。ISBN 978-4-7926-0436-3。
- 『「ジャパニズム」03』青林堂、2011年8月26日。ISBN 978-4-7926-0439-4。
連載
- 『表現者』 - 「幻の黄金時代--オンリー・イエスタデイ'80」(2006年)
- 日刊スポーツWEB(2006年)
- 6月に開催されたワールドカップドイツ大会のコラム 『WiLL』 -「メディア・スクランブル」(2012年11月~2016年4月)
- 『WiLL』-「西村幸祐の今月のこの一冊」(2016年6月~)
- 『Hanada』-「メディアの手口」(2016年5月~2017年4月[33][34])
受賞
- 1982年、朝日広告賞部門賞(コピーライター)受賞。
脚注
注釈
- ^ 2004年(平成16年)8月15日の開局以来ベルト番組、「報道ワイド日本」の金曜日「クリティーク」のキャスターを務めた。一時期、キャスターから退いたが、2007年に交代制でキャスター復帰。
出典
外部リンク