藤岡 勝二(ふじおか かつじ、明治5年8月12日(1872年9月14日) - 昭和10年(1935年)2月28日)は、日本の言語学者。上田萬年を継いで、東京帝国大学言語学教授を務めた。文学博士[1]。
京都に生まれた[2]。1897年に帝国大学博言学科を卒業して、1912年に文学博士の学位を取得した[1]。
1898年、保科孝一・岡田正美とともに国語に関する事項取調の嘱託に就任し、国語国字問題の研究に取り組んだ[3][4]。藤岡は1900年の小学校令施行規則の所謂「棒引き仮名遣い」を支持し[5][7]、学術雑誌の論文も棒引き仮名遣いで書いた[8]。
藤岡は上田萬年が創設した言語学会の機関誌『言語学雑誌』(1900年創刊)の編集人でもあった[9]。
1901年[10]から1905年[11]までドイツに留学し[14]、ライプツィヒ大学で学んだ。留学時にはヴィルヘルム・ヴントの心理学に傾倒した[15]。
帰国後の1905年に上田萬年が東京帝国大学文科大学の国語国文学第一講座へ移ると、藤岡は同学言語学講座の講師、同年助教授となると同講座の主任を継ぐ[16]。1910年[17]には上田の後任として教授に就任した[18]。印欧語比較文法、一般言語学、アルタイ語族ほかの東洋諸言語について講義を行った[2]。
1907年に清に出張し、内蒙古でモンゴル語の調査を行った[2]。1933年に定年退官(後任は小倉進平)。1935年に病没した[19][20]。
藤岡は1923年以降長年をかけて写真版をもとに『満文老檔(中国語版)』を日本語に翻訳し、1932年に奉天で調査する予定だったが果たせず[2]、訳書は出版できないまま病に倒れ、没後1939年にオフセット出版された。
藤岡は上田萬年によるローマ字や教科書編纂を輔佐し、その著作はほとんど日本語関係のものであって、印欧語関係については何の著作も残さなかった[15][疑問点 – ノート]。唯一の例外はジョゼフ・ヴァンドリエス『言語学概論』の翻訳で、これも没後の1938年に出版された。
翻訳書にはほかに『ことばのおひたち』(謄写版)がある。原書はウィリアム・ドワイト・ホイットニーの『The Life and Growth of Language』[35](1875年[36][37])。
1908年に國學院大學同窓会で行った講演「日本語の位置」において、ウラル・アルタイ語族の特徴14項目のうち母音調和を除く13項目が日本語と一致すると指摘し、藤岡の社会的地位の高さもあいまって、後世に大きな影響をもたらした[注 1]。
国語学関係の主著は『国語研究法』(1907年)である。
1905年にローマ字団体を大同団結した「ローマ字ひろめ会」が結成された。藤岡はその創立以来の参加者で[47]、その著書『羅馬字手引』はバイブルのような存在だった。
当時はヘボン式が圧倒的に優勢であり、藤岡も一貫してヘボン式を支持していた。1912年に基本方式を標準式(ヘボン式)としたため、日本式ローマ字派の分離を招いた[48]。1937年の内閣訓令で日本式に近い訓令式が正式のローマ字とされたが、柿木重宜によると、これは政界に影響力を持つ藤岡の逝去が関係するのではないかという[49]。
『新公論』