菊地 哲(きくち てつ、1969年2月22日 - )は、日本の音楽家でD'ERLANGERのドラマー(Tetsu名義)、デザイナー(GREATZ UPPER(愛称:G-U、テットス)名義[2])。株式会社カインアベル 社長[3]。
1985年、DEAD WIRE(Kyo、TAIJIも在籍)に参加も翌年解散
1986年、SAVER TIGER(KYO、Hideも在籍)に加入も翌年解散
1987年、 Mephistophelesに加入も脱退
1987年、D'ERLANGERに加入。
1990年、D'ERLANGERでメジャー・デビュー。同年解散。
1991年、ZI:KILLに加入。同年脱退。
1992年、BODYを結成し、1994年4月にメジャー・デビュー。翌月5月に日本武道館でデビューライブを行うが、同年7月に解散。
2006年1月、CRAZE解散。
2007年、D'ERLANGER再結成。4月22日、日比谷野外音楽堂にて復活ライブを行った。その後、D'ERLANGERが独立し事務所社長に就任。2023年9月現在の所属レーベルはワーナーミュージック・ジャパン。
東京都新宿区の慶應義塾大学病院にて誕生。誕生日に関しては、22日から23日の日付変更の頃に誕生した為、誕生日が23日になりかけるも、ゾロ目の22日となった。
幼稚園から大学まである私立学校に通っていたが、高校へ進学した入学式の日に喧嘩で退学した。
ドラムの専門学校に入学したが、すぐに辞める。
その後、44MAGNUMのローディーとしてドラマーである宮脇“JOE”知史の元に弟子入りする。この時に広瀬さとしの弟子であった瀧川一郎(CIPHER)や加藤純也(元REACTION、元GRAND SLAM)と出会った。
KYOやTAIJIと共に活動していたデッド・ワイヤー時代、当時サーベルタイガーのhideが哲を迎えようと電話したところ、哲は留守で母親が出てきて、伝言を頼んだ。しかし、本名を名乗っていたため、哲には「松本さんという方から、一緒にバンドをやりませんか?」としか伝わらず、無視することに。しかし、サーベルタイガーに加入するという噂がデッド・ワイヤーに広まり、哲とTAIJIが大喧嘩。結果、引っ込みのつかなくなった哲はサーベルタイガーに加入したが、これが元で一時hideとTAIJIの仲は気まずいものになった。
1988年9月 京都スポーツバレーでCIPHERと再会したことからD'ERLANGERに誘われ加入することになった。
18歳から20歳のD'ERLANGERメジャー・デビューまでの1年半の間、京都に住んでいた。京都からTETSUがKYOに電話して誘い京都に呼びD'ERLANGERに加入することになった。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズのチャド・スミスと親交が深く、チャドの来日時は付き人になる。
1992年5月に、藤崎賢一・瀧川一郎・岸根光・菊地哲の4人によるSPYいう一夜限りのバンドがあった。
ZI:KILLまで「TETSU」の名で活動していたが、再結成したD'ERLANGERでは「Tetsu」(頭文字のみ大文字)の表記に変更した[4]。(詳細はZI:KILL#エピソードを参照。)
RE雨宮作成のコンプリートカー・GReddyIII(マツダ・RX-7・FC3S型ベース)のオーナーだったことがあり、盟友の瀧川一郎や加藤純也(元REACTION、元GRAND SLAM)は走り屋仲間でもあった。菊地の愛車は瀧川の愛車と共にBODYやCRAZE時代のライブビデオや音楽雑誌にも登場していたが、自動車雑誌Optionへの掲載、東京オートサロン展示など、自動車界隈でも知られた存在だった。なお、GReddyIIIは2000年代中頃あたりまでに菊地の手を離れたと見られているが、少なくとも近年まで菊地の関係者の手によって大切に維持、保管されており、近影はweb optionでも確認出来る[5]。
1999年2月24日リリースのCRAZE『ware ware, war』収録「OVER」(作詞作曲菊地哲)はhideに捧げた曲。
ドラム会に参加している。
ヤガミトール(BUCK-TICK)をアニキと慕っている[6]。
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