菅生(すがお)は、神奈川県川崎市宮前区の町名。現行行政地名は菅生1丁目から菅生6丁目、住居表示実施済区域[5]。面積は1.454km2[2]。
宮前区の北部に位置し、神奈川県道13号横浜生田線が域内を貫通している。一帯は住宅地となっているほか、聖マリアンナ医科大学と、地域医療の拠点ともなっているその付属病院も所在している。宅地開発により、一部では地図混乱地域が発生した。
菅生の北端では菅生ケ丘・初山や多摩区の長沢・三田・枡形と、東端から南東にかけて犬蔵と、南西端では水沢、南端には美しが丘(横浜市)と接している(特記のない町名は宮前区)。
住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、菅生3-39-4の地点で17万8000円/m²[6]、菅生5-7-12[7]の地点で18万3000円/m²となっている。
この地からは縄文時代前期の菅生カネヅカ遺跡が発掘されている[8]。「菅生」という語は鎌倉初期の文献に、「菅生郷」として登場しており、この当時は国衙領であったと考えられている[9]。1559年(永禄2年)の小田原衆所領役帳には、小机衆高田玄蕃助が「三十貫文 小机 菅生内」、同人の寄子分として「三十貫文 同 菅生内」と記載されており[10][11][12]、この当時には「上菅生」と「下菅生」に分かれていなかったことがうかがえる。
江戸時代初期には上菅生村と下菅生村に分かれたとされており、正保期の「武蔵田園簿」には「下菅生村」の文字が見える[10]。また、「蔵敷」と呼ばれた一部は、それ以外の「本村」と領主が違い、『新編武蔵風土記稿』にも「おのづから別に一村のごとし」と記録されている[13][14]。山沿いは天水、平地では湧き水を使うなど水利が悪く、農民は副業として炭焼きや「菅生笊」として知られる笊作りなどを行っていた[15]。
明治維新以降も農村であったが、戦時中には陸軍が土地を確保し、それが解放された後には宅地開発の波が押し寄せ、農地はほとんどが宅地へと姿を変えていった。
文字通り「菅が生えていた土地」と捉える見方もあるが[8]、小さい谷が続く土地の意味とする解釈もある[11]。
菅生が住居表示を施行する前の字は、以下のようになっていた[16]。
2024年(令和6年)12月31日現在(川崎市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年3月時点)[23][24]。
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[25]。
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
当地を通る鉄道の計画として川崎縦貫高速鉄道があり、当地には蔵敷駅・医大前駅の2駅が設置される計画となっていたが、中止となった。
当地が鉄道の駅から離れていること、また聖マリアンナ医大病院があることもあって、小田急線の向ヶ丘遊園駅・生田駅・新百合ヶ丘駅、登戸駅、東急田園都市線の溝の口駅・宮前平駅・鷺沼駅・あざみ野駅とを結ぶバスが小田急バスと川崎市交通局によって運行されている。さらに鷺沼駅発着の系統では、この2社局に加えて東急バスが運行する便も存在する。
また、蔵敷交差点から南側は田園都市線のたまプラーザ駅、北側は小田急線に出る人が多い。
町内の警察の管轄区域は以下の通りである[28]。
有馬 | 梶ケ谷 | けやき平 | 小台 | 鷺沼 | 神木 | 土橋 | 西野川 | 野川台 | 野川本町 | 東有馬 | 馬絹 | 南野川 | 宮崎 | 宮前平
犬蔵 | 五所塚 | 潮見台 | 神木本町 | 白幡台 | 菅生 | 菅生ケ丘 | 平 | 南平台 | 初山 | 水沢