荒町 (あらまち)は、宮城県 仙台市 若林区 、市中心部 から見ると南東に位置する町である。もと米沢 にあった新町(あらまち)が、領主の伊達氏 に従って16世紀末に住民ごと岩出山 に、続いて17世紀初めに仙台に移転して荒町と改称、さらに一度仙台の中で移転して現在地に落ち着いた。伊達御供の御譜代町 の一つで、古くからの商店街として続いている。
概要
荒町は現在の地理でいうと、若林区の西の端、宮城県道235号荒井荒町線 道路の西端で、国道4号(愛宕上杉通 )から毘沙門堂 前までの道の両側にあたる。1960年代から仙台市が進めた住居表示 導入に伴う町名変更が及ばなかったところで、北や南との境界も少々入り組んでいる。北に接するのは、西から東へ、清水小路 、東七番丁 、東八番丁 、東九番丁 、連坊小路 。南に接するのは、西から東へ、土樋 、石垣町 、弓ノ町 である。現在の道路幅は片側1車線、計2車線の車道が9メートル、左右の歩道が3メートルの計12メートルである。バス路線が通り、朝夕の交通量が多い。
仙台でははじめ現在の本荒町に置かれたが、1628年 頃に奥州街道 沿いの現在地に移転した。奥州街道筋の町で、江戸 に近い南東にあった。麹 の専売権を与えられ、明治 時代まで麹屋が多かった。江戸時代から現在まで、豪商が軒を連ねたり、中心商店街・繁華街になったことはないが、庶民的な商工業地であり続けている。町の守り神として奥州仙臺七福神 の毘沙門堂(満福寺 境内)があり、荒町住民が盛り立てる。祭礼では、江戸時代に相撲 の興行、戦後は星空コンサートや夜空のオーケストラがあって活気づく。
歴史
荒町の割り出し
戦国時代 に伊達氏 が米沢 を本拠にていたとき、新町は米沢六町のひとつで、その中でもっとも新しい町であったかと想像される[3] 。奥州仕置 によって岩出山に転じることになった伊達政宗 は、岩出山城下に区割りして作った新町に、米沢から移った新町の町人を住まわせた。仙台に移るときも住民を移し、同時に名を荒町と改めさせたらしい。
初め、荒町は仙台城下の中心である芭蕉の辻 の南西、南北に走る奥州街道 の一本西の裏通りに設定された。1628年 (寛永5年)頃、仙台の南東に若林城 が築かれると、そこの城下町整備とともに、仙台の城下町も南東方向に大きく範囲を拡張した。1627年 (寛永4年)か1628年 (寛永5年)頃に荒町も南東に移転し、奥州街道に沿う東西に長い町になった[4] 。
新しい荒町の西端で奥州街道は北に折れて田町 となる。街道は国道4号で終わる現在の西端より伸び、東北学院大学 があるブロックに突き当たる細い道である。東の端は毘沙門堂の前で、南鍛冶町 と隣り合う。この東端が、仙台の城下町と若林の城下町の境界線で、荒町は仙台に属した[5] 跡地は本荒町または元荒町と呼ばれ、幕末まで武家屋敷が並んだ。
仙台には24の町人町の序列を表す町列が定められており、荒町は御譜代町の中の6番目、全体の中でも6番目に位置づけられた[6] 。町の行政は、肝入、検断という町役人が取り仕切った。
商業特権
江戸時代のはじめには、御譜代町に九月日市の特権が与えられた。これは、毎年9月に御譜代町のひとつが主要17品目の取引場所に指定され、他の町で指定品目の売買が禁止されるというものである。指定は交代制で6年に1度巡ってくる。城下の他の町の商人、外からやってきた商人は、その期間中は指定の町の商人に場所代を払って店を出した[7] 。
日市の制度は商業が未発達で常設店舗が少なかった時代のもので、慶安4年(1651年)10月に廃止された。かわりに日市銭を城下の全商人から取り立てて6年交代で町に配るようになった。日市銭は店の場所によって額が異なったが、荒町自身は上・中・下のうち下場所となった。
荒町だけの特権としては、麹の専売権があった[8] 。江戸時代の大きな家では酒や味噌を製造する家が多かったが、麹の製造には特別な施設と管理が必要であった。その麹屋が荒町だけのものとされた。この特権は、延宝3年(1675年)閏4月の売り散らし令で廃止された。代わりに、他の町で麹室を設ける者は、一間室につき1か年金7切(銭で7000文)、半間室なら4切を役銭として取り立てた。町単位の特権は荒町の麹以外にもあり、売り散らし礼で廃止されたのは同じである。城下の外れにある寺社門前町である八幡町 と宮町 は、特別に役銭が免除の特権があったが、麹室についてはその免除が効かなかった[9] 。
荒町の麹独占は江戸時代後期までに復活し、明治初年の廃止まで維持されたようである[10] 。麹屋には各店ごとの販売地域があり、客が来るとその住地に従って担当地域の店を紹介していた[11] 。
江戸時代の町並みと商況
町並みは、法定の区画である軒で計ると、各種史料に差があるが約90軒[12] で、人口は1852年 (嘉永5年)に727人あった[13] 。
江戸時代の荒町には、清水小路(現在の愛宕上杉通 )沿いに出た湧き水が流れ込む孫兵衛掘という用水路が通っていた。この堀には四ツ谷用水 の一流も流れ込んだ[14] 。
街道筋ではあったが、蔵の数や日掛銭の課税からみると、荒町の繁栄は城下の平均よりやや下であったようである[15] 。また、御譜代町の中で日市銭徴収基準の下場所とされたのは柳町 と荒町だけであった。もっとも、24町のうち上場所は3、中場所は6しかなかったから、下場所だからといって寂れているとは限らない。
町並みの特徴は麹屋が多いことで、味噌屋と醤油屋も多かった。天保5年の味噌醤油仲間54人のうち、荒町は味噌醤油屋1、味噌屋2、醤油屋7の計10人を占めていた[16] 。これらの製造が暇になる夏には団扇 を作って売った。渋団扇は荒町の名物であった[17] 。幕末の頃には回文を載せた渋団扇が荒町の特産品になっていた。
江戸時代の都市はしばしば大火に見舞われた。仙台は冬に乾燥する気候で、そのころ北西風が吹くため、ちょうど風下にあたる荒町は類焼しやすかった。
その中の一部をあげると[注 1] 、宝永 4年2月13日(1707年 3月16日)荒町の裏にある松山七左衛門屋敷の借宅、岡山忠兵衛の家から火が出て、166軒が焼けた[18] 。被害は423戸ともいう[19] 。そのうち荒町の被害は不明だが、続く20日(1707年 3月23日)にまた大火があって、荒町は残らず焼けてしまった[18] 。
享保 3年4月1日(1718年 4月30日)には、田町 の裏から出火した火が東に進み、荒町を残らず焼いて南鍛冶町 まで達した[20] 。
文政 5年2月26日(1822年 4月17日)には、荒町と谷地小路の境の西側、木村源治の侍屋敷から出火し、東に延焼して、若林城 のそばにあった藩の蔵まで燃え広がった。荒町は86軒、隣の南鍛冶町も100軒でほぼ全滅、穀丁、南染師町も大被害となり、周りの足軽屋敷も含め、502軒が類焼した[21] 。
翌文政6年12月25日(1824年 1月25日)には片平丁 で出た火災が荒町を通り過ぎて石名坂まで167戸を焼いた。
江戸時代の文化
江戸時代の仙台の町人は、町ごとに守り神というべき小さな神社か仏堂を祭っていた。荒町のは若林城下建設にあわせて[22] 郊外の北目城 付近から移されたと伝えられる毘沙門堂で、満福寺 を別当にした。毘沙門天では、江戸時代には6月1日から3日まで祭礼があった。江戸時代の仙台では芝居・見世物の興行が藩によって原則禁止されていたが、六ヶ所御神事場と呼ばれた6つの祭礼だけは例外で、毘沙門天の祭礼もその一つであった。毘沙門堂では特に相撲興行が人出を呼んだ[23] 。祭りの名物としては兎落雁が売られていた[24] 。
荒町には上記の真言宗 満福寺のほかに、浄土宗 の常念寺 、曹洞宗 の昌傳庵 、日蓮正宗 の仏眼寺 もあった。周縁部に寺院を配置するのは江戸時代城下町の常道である、
幕末・明治時代には仙代庵 という回文 の上手がいた。本名は細谷勘左衛門、本業は麹屋だったが、諧謔を好んで多数の回文を作り、数々の奇行をもって知られた[25] 。
仙代庵の名は江戸にもその名が知られていた。また、もともと荒町名物の渋団扇に回文を載せて販売した所、人気を集め話題になりお土産品にもなった。
明治時代の区割りの変遷
戊辰戦争 に敗れて減封された仙台藩 は、1871年 (明治4年)に町人町の行政制度を改めて、肝入・検断のかわりに町ごとの町人代 を置いた。荒町では佐藤十兵衛が町人代になった[26] 。
大区小区制 が施行された1872年 (明治5年)4月に、荒町は宮城県第1大区の小6区の一部になった。区分は1876年 (明治9年)に改正され、荒町は第2大区の小6区に属した。1872年の小6区は芭蕉の辻 以南の奥州街道沿いをまとめた細長い区で、1876年の小6区は仙台の南西部を占める面積が広い区である。
1876年 (明治11年)に大区小区制を廃して郡区町村編制法 の下で仙台区 が発足すると、仙台区は区内を5つの組に分け、住民から選ばれた組長を置いた。荒町はそのうち1番組に属した[27] 。1889年 (明治22年)に仙台市 が50区を置くと、その一つに荒町区が置かれ、庄司源兵衛が区長になった[28] 。
近代の荒町
1873年 (明治6年)7月3日、学制 にもとづく小学校として、三百人町小学校が常林寺 内に設置された。これは名前の通り三百人町にあったが、やがて荒町に校舎を建てて荒町小学校 になった。一時期は雅称を用いて知新小学校ともいった。同年には私塾として岡本源七が英学岡本家塾が設立され、後に英学育英舎と改称した[29] 。
明治に入ると、旧藩時代の商業特権はすべて失われたが、依然として仙台の麹屋は荒町に集中し、家庭での酒や味噌作りに欠かせない麹を売っていた。だが麹の需要は低落傾向にあり、1902年 (明治35年)の酒造法 が業者以外の酒造りを禁止したために激減した。20世紀前葉までに、麹を売る店は現在ある佐藤麹味噌醤油店と銭形屋麹店の2軒になっていた[30] 。
20世紀に入ってから、荒町では道路を拡幅し、現在の12メートル幅ができあがった。仙台市電 は奥州街道筋を通らなかったが、バスが荒町を通った。
現代の荒町
荒町小学校(2011年)
第二次世界大戦 中の仙台空襲 で、仙台の市街はあらかた焼き払われたが、中心から離れた荒町は被害を受けなかった。業種の入れ替わりがありつつも、比較的小さな商店・職人の町としての性格を変えずに今日に至る。
1957年 (昭和32年)に宮城文化服装学院が置かれ、1976年 (昭和51年)に宮城文化服装専門学校 と改称した。
1960年代から1970年代に、仙台市は住居表示 を導入して両側町を基本とする町名を整理する事業を進めた。町名変更は中心部から徐々に施行されたが、伝統ある町名をとどめたいという意見が強まって途中で停止し、荒町付近の町名は変更されないままとなった。
1987年 (昭和62年)から2006年 (平成18年)まで、荒町では毘沙門堂の祭礼にあわせ、宮城フィルハーモニー管弦楽団(1989年に仙台フィルハーモニー管弦楽団 と改称)を呼んで「星空のコンサート」を開催した。2007年 (平成19年)からは宮城教育大学 管弦楽団を呼んで「夜空のオーケストラ in 荒町」を開催している。
年表
世帯数と人口
2017年 (平成29年)4月1日 現在の世帯数と人口は以下の通りである[1] 。
脚注
注釈
^ 仙台藩は100軒以上被害の大火しか記録しておらず、大火であっても正確な被害範囲がわからないものもある。
出典
^ a b “町名別年齢(各歳)別住民基本台帳人口 ”. 仙台市 (2017年4月28日). 2017年6月30日 閲覧。
^ “市外局番の一覧 ”. 総務省. 2017年5月29日 閲覧。
^ 1954年刊『仙台市史』第1巻194頁。
^ 『仙台鹿の子』(『仙台市史』第8巻218頁)。1954年刊『仙台市史』第1巻74頁、『仙台市史』通史編3(近世1)100頁も同じ。
^ 『仙台鹿の子』(『仙台市史』第8巻218頁)に若林の境として記される。『仙台市史』通史編3(近世1)110頁が、これを若林城下と仙台城下の境界と解する。
^ 『仙台市史』通史編3(近世1)97頁。
^ 1954年刊『仙台市史』第1巻228-229頁。
^ 1954年刊『仙台市史』第1巻231頁。
^ 1954年刊『仙台市史』第1巻243頁。
^ 1954年刊『仙台市史』第1巻260-261頁。
^ 『荒町界隈物語』84頁。
^ 1954年刊『仙台市史』202頁。
^ 「御城下町中切支丹宗門御改人数」、『仙台市史』第8巻(資料編1)531頁、資料番号517。
^ 『仙台市史』通史編4(近世2)167頁。
^ 1954年刊『仙台市史』第1巻206頁。
^ 『仙台市史』通史編5(近世3)256頁。
^ 1954年刊『仙台市史』第1巻307頁。
^ a b c d 『源貞氏耳袋』第7巻85(95頁)。
^ 増田村 (現名取市 )にあった修験道 の広積院の記録による。『名取市史』237頁。
^ a b 『源貞氏耳袋』第7巻85(99頁)。
^ a b 『源貞氏耳袋』第7巻11(26-27頁)。
^ 『仙台市史』通史編3(近世1)110頁。
^ 『仙台市史』通史編4(近世2)351頁、通史編5(近世3)326-327頁。佐藤雅也「近代仙台における庶民の生活暦(3)」23頁。
^ 石橋幸作『駄菓子のふるさと』18頁。
^ 『仙台市史』通史編5(近世3)364頁。『荒町界隈物語』33頁。
^ 『仙台市史』通史編6(近代1)58-59頁。
^ 『仙台市史』通史編6(近世1)60頁、64頁、66頁の各図。
^ 『仙台市史』通史編6(近代1)162頁。
^ 『仙台市史』通史編6(近代1)336頁。
^ 『荒町界隈物語』75頁。
^ 『義山公治家記録』巻之八(『伊達治家記録』五の392-393頁)。
^ 『義山公治家記録』巻之八(『伊達治家記録』五の420頁)。
^ 『名取市史』259頁、増田の広積院の日誌による。
^ 荒町市民センター のウェブサイトの「本日新館オープン [リンク切れ ] 」。2010年12月11日閲覧。
参考文献
作者不明『仙台鹿の子 』、元禄8年(1628年)頃成立。仙台市史編纂委員会・編『仙台市史』第8巻に収録、資料番号378。
作者不明、吉田正志・監修、「源貞氏耳袋」刊行会・編集発行『源貞氏耳袋 』、2007年。
平重道・編『伊達治家記録』五、宝文堂、1974年。
石橋幸作『駄菓子のふるさと』、未來社、1961年。
佐藤雅也「近代仙台における庶民の生活暦(3)」、『足元からみる民俗』(16)、調査報告書第26集、仙台市教育委員会・仙台市歴史民俗資料館、2008年。
仙台市史編纂委員会『仙台市史』第8巻(資料篇)、仙台市役所、1953年。
仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編3(近世1)、仙台市役所、2001年。
仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編4(近世2)、仙台市役所、2003年。
仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編5(近世3)、仙台市役所、2004年。
名取市史編纂委員会『名取市史』、宮城県名取市、1977年。
関連項目
外部リンク
河原町区 南染師町区 南鍛冶町区 三百人町区 成田町区 二十人町区 鉄砲町区 連坊小路区 名掛丁区 東七番丁区 南町通区 東一番丁区 東二番丁区 新伝馬町区 東三番丁区 荒町区 土樋区 弓ノ町区 北目町区 道場小路区 米ケ袋区 霊屋下区 大町区 肴町区 琵琶首区 南町区 本荒町区 元寺小路区 花京院通区 小田原西区 小田原東区 堤通区 通町区 勾当台通区 北二番丁区 宮町区 国分町区 立町区 本柳町区 常盤丁区 北材木町区 本材木町区 八幡町区 半子町区 中島丁区 川内区 二日町区 北山町区 北一番丁区 木町通区 他村より編入