船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は、広島県広島市草津出身の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。
広大付属高校2年の時、ゴールキーパーとして桑田隆幸や野村尊敬、同級の小城得達、桑原楽之、溝手顕正らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝、3年時はベスト8。
高校を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ入団。同チームの監督となった下村幸男の後を受け正ゴールキーパーとなる。石井義信、小沢通宏、今西和男、丹羽洋介、桑原弘之、大野毅、川野淳次、国枝強らとゴールを守り、日本サッカーリーグ(JSL)4連覇と3度の天皇杯制覇に貢献した。
また1966年から引退直前の1975年まで長きに渡り日本代表にも選ばれ、国際Aマッチ19試合を含む合計50試合の代表戦出場試合がある。しかし横山謙三に次ぐ控えキーパーだったため、重要な試合の出場は少なく、1971年に行われたミュンヘンオリンピック予選などでも出番はなかった。
東洋工業ではJSL結成から1975年まで延べ11年間、166の全試合に出場、東洋工業のゴールを守り抜き同年引退。その後同チームコーチなどを経て、1979年の下村幸男監督時代の日本代表でGKコーチとして活躍。1981年からマツダサッカースクールの講師となり、広島県内の中高生の指導を長く続け、家本政明、上村健一、若井研治などを育てた。社業もマツダの部品業務部に長く勤めた。
会社を定年退職した後は、2007年までJリーグのマッチコミッショナー、2008年以降は日本フットボールリーグのマッチコミッショナーを務めている。
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