粟屋 和彦(あわや かずひこ、1922年9月15日 - 1995年5月11日[3])は、日本の教育者、医学者。山口大学第7代目学長。医学博士(1956年、京都大学にて取得)。
略歴
山口県宇部市出身[3]。1943年、九州帝国大学附属医学専門部卒業[3]。1955年、山口県立医科大学(現:山口大学医学部)解剖学教室にて「核酸と形質細胞反應」(共著)を著す[4]。1956年、京都大学にて「卵アルブミン刺戟に対するリンパ系の反応様式:特にリンパ球造血における二次小節の役割について」で医学博士となる[5]。1965年より山口大学医学部教授、1977年から1981年まで医学部長[3]。1984年同大学第7代目学長に就任(1990年まで)。1990年より宇部短期大学学長[3]。1995年5月11日、急性心不全のため死去[3]。
研究・論文
- 「造血器細網組織の構造と機能に関する研究」(山口大学医学部、1975年)[6]
- 「拒否反応の形態学」(日本口腔科学会雑誌、1970年)[7]
- 『血液・胸腺関門 (blood-thymic barrier) は存在するか?』(共訳 粟屋和彦、原田史子、Japanese circulation journal、1970年)[8]
- 「免疫系の系統発生に関する研究」(山口大学、1983年)
書籍
- 『南半球の月ー基礎医学者の随想集』(近代文芸社、1991年)
- 『尾曽越文亮教授研究業績目録』(山口大学医学部解剖学第一講座開講三十周年記念事業委員会、1979年)[9]
栄典
人物
山口大学学長時代、学内や吉田地区周辺の環境整備について、学生の勉学と研究の場にふさわしいものにするために尽力した[10]。
脚注
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- 初代 松山基範 1949-1958
- 事務取扱/第2代 田中晃 1958/1958-1962
- 第3代 市川禎治 1962-1969
- 事務取扱 田中弘道 1969-1970
- 事務取扱/第4代 力武一郎 1970-1971/1971-1973
- 第5代 中村正二郎 1973-1977
- 事務取扱 戸田光敬 1977-1978
- 第6代 小西俊造 1978-1984
- 事務取扱 岩城秀夫 1984
- 第7代 粟屋和彦 1984-1990
- 第8代 三分一政男 1990-1993
- 第9代 村上悳 1993-1996
- 第10代 広中平祐 1996-2002
- 第11代 加藤紘 2002-2006
- 第12代 丸本卓哉 2006-2014
- 第13代 岡正朗 2014-2022
- 第14代 谷沢幸生 2022-
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