筒井 順覚(つつい じゅんかく)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。大和国の国人で、興福寺衆徒。史料上確認できる最初の筒井家当主。
生涯
筒井氏は、大和国の西北部(添下郡・平群郡)に結成された武士の一揆的集団・戌亥脇党の一員。鎌倉時代の結成当初は目立つ存在ではなかったが、南北朝時代の順覚の頃には有力な存在として台頭してきた。
元中2年/至徳2年(1385年)、初めて順覚の名が現れ[4]、翌元中3年/至徳3年(1386年)には、興福寺の衆中(官符衆徒)沙汰衆の1人として順覚の名前が見える。
元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝の合体が行われた後も、幕府方と旧南朝(後南朝)方の争いは続いており、応永11年(1404年)7月、後南朝方の箸尾為妙と十市遠重により筒井氏(順覚か)は攻められ、敗れた筒井氏は本拠である筒井郷を焼かれた。これを受け幕府は使者を遣わして合戦を停止させ、応永13年(1406年)2月、足利義満は軍勢を派遣して箸尾氏・十市氏を破り、両氏から所領を没収した。
応永21年(1414年)、多武峰寺と宇陀郡の沢氏の間で合戦が発生。幕府はこれを制止したが収まらず、越智氏が沢氏に加勢し、また十市氏や布施氏、高田氏ら諸氏も出陣するなど、戦いの規模も大きなものとなっていた。興福寺の学侶や衆徒たちは協議のうえ、幕府に私合戦の停止を訴え、これを機に幕府は衆徒・国民を上洛させて、私合戦の停止を誓わせた。この時の誓約には筒井氏も加わっている。
応永29年(1422年)5月、筒井舜学房が死去。この舜学房が順覚であると推測される[注釈 1]。
順覚の跡は孫の覚順が継ぎ、永享6年(1434年)に覚順が戦死すると、その伯父の順弘が家督を継いだ。
脚注
注釈
- ^ 舜学房を順覚と別人とし、永享6年(1434年)8月に筒井五郎とともに討たれた「大将筒井」(『看聞日記』)を順覚とする説もある。
出典
- ^ 至徳2年11月日乾脇一族等連署約諾状案(「東大寺薬師院文庫史料 五」)。
参考文献