筒井 順昭(つつい じゅんしょう)は、戦国時代の大和国の大名。筒井順興の嫡男。筒井順慶の父。興福寺官符衆徒で、筒井城を居城とした。
生涯
大永3年(1523年)、順興の子として誕生。天文4年(1535年)7月、父の死にともない家督を継ぎ、天文7年(1538年)に得度(元服)した。
順昭が家督を継いだ当時、大和は木沢長政の支配下にあったが、天文11年(1542年)3月、太平寺の戦いで長政は戦死する。順昭は長政を討った河内守護・畠山稙長に与し、同年9月、長政方の飯盛山城へと出陣している。
天文12年(1543年)4月、順昭は6000騎の軍勢を率いて東山内(ひがしさんない、大和高原)の簀川氏を攻め、須川城を落城させた。さらに、順昭は古市氏を攻めて古市城を奪うが、城は古市方の手により焼け落ちた。翌天文13年(1544年)7月には、東山内の柳生城を攻め落とした[12]。このとき順昭が率いたのは、十市氏の300や鷹山弘頼の指揮する河内勢300[13]などからなる1万の軍勢だったという。
天文15年(1546年)8月の細川晴元と細川氏綱の争いでは畠山政国・遊佐長教とともに氏綱に味方し、順昭は一時竜田(生駒郡斑鳩町)へと出陣した。
同年9月、越智氏を攻めて、翌10月に貝吹山城を落城させる。これにより、順昭は「一国悉以帰伏了」といわれ(『多聞院日記』)、東山内と国中(くんなか、大和盆地)周辺の統一を果たした。また、9月には十市氏より城(十市城か)を明け渡され、天文16年(1547年)5月には箸尾氏の城を破却しており、筒井氏の最盛期を築くこととなった。
しかし、天文18年(1549年)4月、順昭は数名の供のみを連れて比叡山に入り、生まれたばかりの嫡男・藤勝(順慶)へと家督を譲る。順昭は、天文15年(1546年)に「もがさ」(天然痘か)を患っていたとみられており、天文19年(1550年)6月20日に死去した。享年28。
この後、幼少の順慶は、一族の福住宗職や順昭の弟の筒井順政が後見していくことになる。
なお、順昭の供養塔である五輪塔(重要文化財)が、奈良県生駒市の圓證寺にある[28]。
元の木阿弥
順昭は死の間際に一族や重臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに、自分に容姿(または声[29])の似た奈良の盲目の法師・黙阿弥(木阿弥[29])を身代わりに立てるよう遺言した。黙阿弥は順昭が最期を迎えた奈良の下屋敷で約1年間過ごし、一周忌を迎え順昭の死が公表されると恩賞を受け取り元の法師・黙阿弥に戻ったとされ、これが「元の黙阿弥(木阿弥[29])」の語源といわれる。また、元の木阿弥の由来については他にも諸説ある[29][31]。
系譜
- 父:筒井順興(1484-1535)
- 母:不詳
- 正室:大方殿
- 側室
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク