神奈川県道40号横浜厚木線(かながわけんどう40ごうよこはまあつぎせん)は、横浜市旭区鶴ヶ峰を起点とし、終点の厚木市厚木までを結ぶ県道(主要地方道)である。
概要
元は横浜市内が「神奈川県道白根瀬谷線」の名称で、大和市と海老名市の境界から厚木市にかけては国道246号の一部であった。横浜市内が現在の名称に変更され、「厚木街道」の通称で呼ばれるようになった。その後、国道246号の新道である大和厚木バイパスが開通にともない、それまでの旧道が県に移管されたことから、横浜市から厚木市までの現在の経路が設定され、名称も統一された。
沿道に厚木基地があるため、米軍車両(パトカー、救急車、スクールバス、バス)が頻繁に通っている。
起点の鶴ヶ峰(鶴ヶ峰駅付近)から海老名駅前交差点(海老名駅付近)までは相鉄本線とほぼ並行しており、三ツ境駅付近ではカーブや峡路がある。相模鉄道二俣川駅付近以外片側一車線であり、同鉄道海老名駅付近は混雑する。
路線データ
歴史
江戸時代
神奈川往還(八王子街道を示す神奈川往還とは異なる)、大山道、相州道とも呼ばれ、厚木より東海道 保土ヶ谷宿・神奈川宿を結ぶ道であった[1]。
三ツ境から東希望が丘、二俣川小学校前を通り、本村町・本宿町・三反田町・市沢町を経て保土ヶ谷区内に入る道で、江戸時代より明治中期まで賑わった旧道とされる。
古東海道沿いの大蓮寺や旭警察署市沢交番、三反田稲荷神社や横浜市立本宿小学校近くなどに史跡が残っている。
明治・大正時代
1899年(明治32年)から1902年(明治35年)の間に新道が完成した[1]。
新道は保土ヶ谷区元町(現 保土ヶ谷3丁目)から保土ヶ谷区今井町、旭区南本宿町を経由するルートとなる(現 保土ヶ谷二俣川線)。
1917年(大正6年)に設立された神中軌道(現 相鉄本線)は、この道路に沿ってレールを敷設する計画で軌道特許を申請していた[2]が、1923年(大正12年)の関東大震災後に帷子川を沿う現在のルートへ変更となった。
1920年(大正9年)の府県道制定によって「横浜厚木線」という路線名が誕生した。
1926年(昭和1)には神中鉄道が開通。二俣川および三ツ境に踏切が設けられる。
近現代
1932年(昭和7年)に厚木街道の直線化工事が開始される。
1934年(昭和9年)までに大和村から瀬谷区二ツ橋交差点にいたる不要な屈曲部が整備され、中原街道と交差する現在の南台交差点まで至る直線道路が新設された[3]。
1936年(昭和11年)に希望が丘駅付近を通る現在のルートに変更。神中鉄道を跨線する三ツ境橋は武相国境道となっており、旭区と瀬谷区の区界ともなっている。なお変更前の道路は1976年(昭和51年)から横浜市道路局が始めた道路に愛称をつける事業[1]によって「旧厚木街道」と名付けられ現在も既存している。
同年9月に二俣川から旭区役所前を通過する現在のルートが整備された。これにより、八王子街道(国道16号線)と接続される現在のルートが完成した[1][3]。
この道路工事には、昭和恐慌による失業者対策や、横浜港から厚木海軍飛行場への交通網を確保したい軍部の軍事道路化利用があったとされる[3]。
地理
通過する自治体
経路および交差する道路
交差する鉄道・河川
脚注
- ^ a b c d 『旭区郷土史』旭区郷土史刊行委員会、1980年4月30日、517,519頁。
- ^ 『「神中軌株式会社発起趣意書・目論見書(他)」付図』。
- ^ a b c 西沢昭 (2022年11月). “神奈川県道40号線(通称:厚木街道)の歴史”. 横浜歴史研究会. 2023年1月14日閲覧。
関連項目