真樹 日佐夫(まき ひさお、1940年〈昭和15年〉6月16日 - 2012年〈平成24年〉1月2日)は、日本の漫画原作者・小説家・空手家。本名:高森 真土(たかもり まつち)。
世界空手道連盟真樹道場宗師 キックボクシング真樹ジム会長。株式会社真樹プロダクション代表取締役、元極真会館本部道場師範代、元マス大山カラテスクール責任者。元ビッグマウス・ラウド特別顧問。NPO・アジア地域戦没者慰霊協会名誉顧問。映画・Vシネマの企画プロデュースや、格闘技のイベント興行・マッチメイクも不定期ながら手がけていた。
ペンネームは、高森3兄弟の本名の名前の部分を梶原のアイデアで作った合成名である。梶原の「朝樹」と「真土」の部分を半分にして氏名の「真樹」。「日佐夫」は三男「日佐志」の名を「日佐夫」とゴロよく「志」を「夫」として「真樹日佐夫」。
東京市渋谷区穏田出身。兄は漫画原作者の梶原一騎。東京都立小山台高等学校[1]在学中、都内で空き巣狙いを繰り返し、警察に逮捕されて1か月余りを保土ヶ谷鑑別所で過ごした[2](このとき母は担当刑事から共犯者の存在を示唆され、梶原に疑いの目を向けた)[3]。これとは別に、傷害・器物損壊・恐喝・窃盗・暴力行為などの容疑で警視庁蒲田署に逮捕され、東京少年鑑別所から八街中等少年院に送られたこともある[4]。少年院では男色行為に及んだこともあると発言している[5]。保土ヶ谷鑑別所に送られた段階で小山台高等学校は放校になったが、八街中等少年院で勉学に励み、2度目の受検で大検に合格[6]。早稲田大学第一文学部英文科を中退したと自称していたが、弟の高森日佐志が書いた『昭和兄弟模様』には、真樹が早稲田大学に入学したとは書かれていない。梶原一騎の紹介で極真会館に入門し、大山倍達と義兄弟の契りを結ぶ。
極真会館東京渋谷支部長や通信教育部門「マス大山カラテスクール」での指導を経て、弐段位にあった1977年(昭和52年)[7]より、総本部第3代師範代になった。大山倍達から機関誌『近代カラテ』の発行を移管され、誌名を『現代カラテマガジン』に変えて刊行していた。この頃、道場生だった麻原彰晃によく稽古をつけていた[8]。1978年に主演した東映映画『カラテ大戦争』では、別人が声を吹き替えた。本人曰く「なにせこの声だからねえ(笑)」とのこと[9]。1980年(昭和55年)には、独自の門派真樹道場を設立する。世界空手道連盟士道館の添野義二館長より、士道館名誉伍段を与えられている。
空手と同時に、劇作家・漫画原作者として『ワル』などを手がける。作家としてのペンネームは高森真士(たかもり しんじ)。この筆名で書いた「凶器」にて、1968年(昭和43年)のオール讀物新人賞受賞。また2000年(平成12年)には、『兄貴』でJLNA文学賞特別賞受賞。梶原との共同作品の際は、正木亜都(まさき あと)というペンネームを用いた。近年は、コアマガジンの『実話マッドマックス』の誌面に度々登場しており、『ブブカ』では連載も担当。『タイガーマスク・ザ・スター』『新☆四角いジャングル』『新空手バカ一代―格闘者』など兄の梶原のヒット作をリバイバルした作品も多々ある。
2011年初頭に話題となった『タイガーマスク運動』に際しても「(兄)梶原一騎があの世から姿を変えて、この世に伊達を遣わせているんじゃなかろうか」と語り、名も知らぬ“伊達直人”に感謝の念を語っていた[10]。同年、『サンデージャポン』のサンジャポファミリーとしてVTR出演。
2012年1月2日、趣味であるヨットセーリングを楽しむべく、神奈川県の逗子マリーナにある自身所有のヨットへ乗船しようとした際に倒れ、病院に救急搬送されたものの、そのまま帰らぬ人となった[11]。71歳没。真樹の死因は急性肺炎と発表された。2011年末から体調を崩しており、本人も周囲も風邪と認識していたという[12]。メディアへの登場は、ムック誌『KUROOBI』での長谷川一幸との対談が最後になった。没後に開かれた真樹日佐夫を偲ぶ会には多くの格闘技・空手界関係者が参列に駆けつけ、日頃敵対関係にある極真諸派の代表も参列した。芦原会館とは芦原英幸が梶原一騎の逮捕後に距離を置き、新宿で道場が隣接したため関係が悪化していたが、芦原の死後、真樹が芦原に関して好意的なコメントをしていたため、2代目英典からは献花が送られた。