相浦 紀道(あいのうら のりみち、天保12年6月23日(1841年8月9日) - 明治44年(1911年)4月1日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。貴族院議員、従二位、勲一等、功三級、男爵。旧名、忠一郎。
経歴
佐賀藩士相浦蕃慎の長男として生れる。藩校・弘道館で学び、佐賀藩海軍に入り、戊辰戦争に従軍。
明治2年(1869年)、「延年艦」副長となり、「長鯨丸」「飛隼丸」の各船長、「日進」乗組などを歴任。明治4年(1871年)、海軍大尉に任官。「摂津艦」「雲揚」「龍驤艦」の各艦長などを歴任。明治6年(1873年)3月、水路寮出仕、水路寮測量課長、海軍兵学校次長などを務めた。
明治12年(1879年)9月、現場に復帰し「筑波」艦長となり、以後、「金剛」「扶桑」の各艦長を経て、明治18年(1885年)12月に海軍少将となる。常備小艦隊司令官、兵器会議議長、技術会議議長、海軍省第2局長、常備艦隊長官、佐世保鎮守府長官などを歴任、明治27年(1894年)7月、警備艦隊長官となり、警備艦隊が西海艦隊と改称し日清戦争に従軍。同年12月、旅順口根拠地司令長官に就任。
明治28年(1895年)2月、海軍中将に昇任し、同年8月には日清戦争の戦功により男爵を授かる。さらに横須賀鎮守府司令長官、常備艦隊長官 、佐世保鎮守府司令長官、二度目の横須賀鎮守府司令長官を歴任した。
明治33年(1900年)5月に待命となり予備役に編入。明治34年(1904年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[1]、死去するまで在任[2]。明治38年(1905年)10月19日、後備役となる[3]。明治42年(1909年)6月23日に退役した[4]。
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
脚注
注釈
出典
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、13頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』61頁。
- ^ 『官報』第6694号、明治38年10月20日。
- ^ 『官報』第7798号、明治42年6月24日。
- ^ 「甲1番大日記 式部寮達 赤塚真成外15名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111306600
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
- ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
- ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、1頁。
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。