畠山 義里(はたけやま よしさと)は、江戸時代中期の高家旗本。畠山義重とも[1]。下野守、飛騨守[1]。従四位下侍従[1]。
畠山義真の次男。大和国宇智郡・河内国交野郡・摂津国豊嶋郡の計3120石を領する。
寛文3年(1663年)1月15日、高家に就任した[1]。本家筋の河内畠山家・基玄より早く高家に列していたことになる。なお、この年の武鑑では猿楽町に居住していたとある。
貞享3年(1686年)3月27日、高家を辞任した[1]。家督を長男の義寧に譲った。
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。