焦 循(しょう じゅん、拼音: Jiāo Xún、1763年〈乾隆28年〉 - 1820年〈嘉慶25年〉)は、中国清代の学者。清朝考証学における揚州学派(中国語版)の主要人物。経学・易学・数学・天文暦学・地誌学・医学・文学・戯曲論など多分野に著作がある。主著に『孟子正義(中国語版)』『論語通釈』『易学三書』。字は里堂または理堂。
人物
江蘇甘泉(揚州府甘泉県(中国語版)、現在の揚州市)の人。易学を家学とする学者の家に生まれる。青年期から40歳まで、飢饉などにより貧困の中、友人の援助を受けつつ科挙対策や数学研究に励む。1801年(嘉慶6年)挙人となる。翌年40歳のとき、会試の不合格や母の病を機に仕官の道を諦め、隠士となる。以降、数学から易学や経学の研究へ移る。58歳のとき没する。
友人に阮元や江藩(中国語版)がいる。阮元とは幼馴染にあたり、その族姉を妻としている。焦循(里堂)と江藩(鄭堂)は合わせて「二堂」と呼ばれる。
伝記として、阮元『通儒揚州焦君伝』、子の焦廷琥(中国語版)『先府君事略』、『清史稿』巻482焦循伝がある。
学問
焦循の学問の特徴として、「固定化した立場を排除し融通性を重視すること」が挙げられる。例えば、焦循は考証学に属しながら、当時の考証学の硬直化(鄭玄への盲従など)を批判した。
焦循は戴震と思想傾向が類似するとされる。揚州学派(中国語版)の末裔である劉師培は、「戴震の学問のうち訓詁は王引之、典章は任大椿(中国語版)、義理は焦循に継承された」と述べている。一方で、焦循は戴震に盲従せず、戴震が漢学と宋学の区別に拘泥したことや、『論語』里仁篇の「一貫」の解釈が違うことを批判した。
数学では、戴震や梅文鼎、ケーグラー(中国語版)(戴進賢)の『暦象考成後編』の学風を継ぎ、中国数学と西洋数学を折衷する立場をとった。阮元の『疇人伝(中国語版)』(東西の数学者・天文学者の列伝)編纂に協力し、ミシェル・ブノワ(蒋友仁)『坤輿全図』の地動説に関する箇所を手伝った。著作の『釈輪』ではティコ・ブラーエの体系(英語版)について、『釈楕』ではカッシーニの楕円運動について扱っている。その他、加減乗除、天元術、『九章算術』劉徽注などを扱った。
易学では、通仮字や数学的思考に基づく解釈を示した。
汪中らと同様に、先秦諸子、とくに『荀子』を再評価した[23]。
主な著作
数学・天文暦学
- 『里堂学算記』
- 『天元一釈』
- 『加減乗除釈』
- 『釈輪』
- 『釈楕』
- 『釈弧』
- 『開方通釈』
経学・易学
地誌
医学
文学・戯曲論
- 『雕菰集』
- 『里堂詩集』
- 『里堂詞集』
- 『仲軒詞』
- 『里堂道聴録』
- 『詩話粹金』 - 詩学書。真作か定かでない[27]。
- 『劇説』 - 戯曲史料集。
- 『花部農譚』 - 戯曲評論。「花部」は乾隆年間に流行した庶民向け演劇を指し、焦循はこれを好んだ[29]。
関連項目
脚注
- ^ 大谷敏夫『清代政治思想史研究』汲古書院、1991年。ISBN 978-4762924231。 289f頁。
- ^ 矢島明希子「陸氏毛詩草木鳥獣虫魚疏の基礎的研究 : 篇目から見る各本の相違」『斯道文庫論集』第50巻、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、2015年、436頁。
- ^ 芳村弘道「(伝)焦循『詩話粹金』について」『學林』31号、中国芸文研究会、1999年。
- ^ 中国芸術研究院戯曲研究所 編、岡崎由美;平林宣和;川浩二 監修・翻訳『中国演劇史図鑑』国書刊行会、2018年。ISBN 978-4-336-06220-8。 213頁。
参考文献
関連文献
外部リンク
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中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
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