湯本 文彦(ゆもと ふみひこ、天保14年6月7日(1843年7月4日) - 1921年(大正10年)9月25日)は戦前日本の歴史家。鳥取藩尚徳館句読頭、宇倍神社権宮司、島根県松江中学校・師範学校長、鳥取県米子中学校長、京都市美術工芸学校教授、東京帝国大学史料編纂員主事、京都帝室博物館学芸委員。京都市参事会『平安通志』編纂委員会主事、池田侯爵家『鳥取藩史』編纂長。平安京の再現研究で知られる。
天保14年(1843年)6月7日因幡国鳥取に鳥取藩士湯本信好の長男として生まれた[7]。幼名は増之助[8]。幼くして弟武彦と堀敦斎に儒学を学び、安達清風と交流した[9]。
安政5年(1858年)3月11日藩学館温書司から教授助に進み、万延元年(1860年)3月11日句読方と改称、文久2年(1862年)8月22日句読方頭に進んだ[10]。9月29日大小姓御雇となり、藩主の上京に随行し[10]、年末安政の大獄犠牲者を祀る会合に出席し[11]、文久3年(1863年)帰国し、1月26日句読頭に復帰した[10]。2月18日上京し、4月10日孝明天皇の石清水八幡宮行幸において徳大寺公純随身を務めた[10]。4月29日帰国し、9月7日浜坂台場警衛を命じられた[10]。
元治元年(1864年)2月29日学校経義懸り討論方[10]。7月3日長州藩御見舞使者として伊丹造酒之助に同行し、帰途上京し、7月28日池田徳定の帰国に随行した[10]。8月21日退職後、12月9日句読頭に復帰し、慶応2年(1866年)3月15日から12月28日まで文場締役寮生懸りを兼務した[10]。
明治元年(1868年)7月27日義衛隊二番組御雇[10]。明治2年(1869年)10月27日総学局皇学寮中教正、11月18日大教正となり、皇学寮検査兼漢学寮詩文督促を兼ねたが、明治3年(1870年)8月29日廃校により退職した[10]。
明治5年(1872年)8月24日宇倍神社権祢宜[10]、1877年(明治10年)1月17日権宮司となり、1879年(明治12年)12月辞職した[8]。
1879年(明治12年)11月島根県令境二郎に招かれ[12]、1880年(明治13年)1月9日島根県[13]庶務課修史御用係として[10]県史編纂を引き受けたが、修史部の独立を訴え[14]、8月10日修史科長兼秘書御用係となった[10]。10月11日秘書科庶務を担当し、1882年(明治15年)2月14日学務課長を兼ねた[10]。
1882年(明治15年)9月26日島根県松江中学校長兼・松江師範学校長を兼任し、1883年(明治16年)1月31日学校、12月24日県を退職した[10]。1884年(明治17年)10月25日鳥取県米子中学校長兼二等教諭となったが、1886年(明治19年)8月19日中学校令により廃止された[10]。
1888年(明治21年)12月25日京都府雇として庶務課に勤務した[10]。1894年(明治27年)2月2日京都府属となり、内務部第一課庶務掛、1895年(明治28年)4月2日第六課、1896年(明治29年)4月1日府知事官房内記掛を歴任し、1899年(明治32年)7月7日第一課社寺掛を兼務した[10]。8月31日京都市美術工芸学校教授[10]。
1902年(明治35年)4月5日府知事官房記録掛となり、6月11日宮内省京都帝室博物館書記を兼ね、9月26日美術工芸学校を退職した[10]。1904年(明治37年)1月東京帝国大学史料編纂員、1905年(明治38年)8月22日史料編纂員主事、1909年(明治42年)4月20日京都帝室博物館学芸委員、1914年(大正3年)帝室博物館学芸委員[10]。
1915年(大正4年)12月28日病気により退官した[10]。1921年(大正10年)夏寝たきりとなり、9月25日上京区相国寺門前町632番地の自宅[17]で死去し、1907年(明治40年)10月13日自ら選んだ愛宕郡下鴨村共同墓地[18]に土葬された[1]。