武田 悟(たけだ さとる、1946年7月18日 - )は、大阪府出身の元騎手・調教助手。
1966年3月5日に京都・夏村辰男厩舎からデビューし、中京第2競走5歳以上60万下・ミヤジチエスタ(6頭中6着)[1]で初騎乗を果たす。同27日の阪神第4競走障害5歳以上未勝利・ウルワシジヤツクで初勝利を挙げ、同日は第7競走4歳以上30万下・ウルワシタイケツで平地初勝利を挙げるなど1日2勝をマーク[2]。6月11日の京都第9競走からたち賞では8頭中8番人気のヨシアトムで初の特別勝ちを決めるなど、1年目の同年から13勝(平地8勝, 障害5勝)と2桁をマーク[3] [4]。
1966年から1979年まで14年連続2桁を記録し[4]、3年目の1968年には京都大障害(春)・タイシユウ[5]で重賞初制覇。タイシユウには平地時代以来の騎乗であったが[6]、前年秋の中山大障害馬ヤマニンダイヤ[7]相手にレコード勝ちした[5]。その後は優駿牝馬をヒロダイコクでルピナスの4着に健闘すると、同馬で北九州記念を制して平地重賞初勝利を挙げる[8]。京都杯ではタニノハローモア・アサカオー・ダテホーライら三強に次ぐ4着[9]と健闘し、その後は京阪杯→京都牝馬特別を連勝[8]。
1969年には京都杯で12頭中12番人気の九州産馬・キングスピードに騎乗し、不良馬場を味方に付けた大逃げでアカネテンリュウに9馬身差を付け、ミノル・ダイシンボルガード・リキエイカンも寄せ付けず圧勝[10]。
1972年からは平地での騎乗に専念し、1973年まで20勝台の勝ち星を挙げ続ける[4]。1974年は17勝であったが、ホウシュウミサイルで重賞2勝と活躍[4]。年明けはシンザン記念を3着とし、きさらぎ賞ではキタノカチドキの2着になるが、春のクラシックでは郷原洋行に交代[11]。ダービー後は中京のオープンからコンビが復活し、初の古馬相手でタケデンバードを相手にせずレコード勝ち。続く金鯱賞も制して5年ぶりの重賞勝利をマークすると、小倉記念をレコード勝ちする[11]。
1974年はアヤフブキで17頭中11番人気であったデイリー杯3歳ステークスをロングホークをアタマ差凌ぐ2着[12]とし、1975年の神戸新聞杯では9頭中7番人気ながら3着に導いた[13]。
1975年にはテスコガビー不在のビクトリアカップ[14]をヒダロマンで外枠から見事な追い込みを見せ[15]、先行して粘るエースコスモを抜いて[15]勝利し、自身唯一のGI級レース制覇を飾る。暮れの阪神大賞典ではロングホークの3着[16]、1976年の京都大賞典では14頭中12番人気ながらテンポイントにアタマ差先着の2着[17]と見せ場を作った。特に京都大賞典はシルバーランド・エリモジョージに先着したほか、10番人気のパッシングベンチャの2着に突っ込んで、枠連8-7は13,670円の大波乱となった[17]。
1975年7月20日の小倉第4競走3歳新馬ではブリンキーバートスに騎乗し、勢いよく飛び出して馬なりのまま4コーナーに入り、直線を抜け出すと、後を振り替えるほどの余裕を見せて6馬身差で快勝する。勝ち時計58秒1の日本レコードを叩き出したが、1ヶ月後の調教中に骨折をし予後不良と診断された[要出典]。
自己最多の32勝を挙げた1976年[4]にはミヤジマレンゴで北九州記念・小倉記念を制し[18]、京都新聞杯では皐月賞馬トウショウボーイ、ダービー馬クライムカイザーに次ぐ3着[19]と健闘。オープンフアバーではデイリー杯3歳Sを2着とし[20]、暮れの阪神3歳ステークスではリュウキコウにクビ差の2着[21]、1977年にはアイノクレスピン・リニアクインが牝馬ワンツーを決めた神戸新聞杯で牡馬最先着の3着に入る[22]。
1978年はトップハンデ59kgを背負ったミヤジマレンゴで小倉大賞典を制し[18]小倉三冠を達成するが、自身最後の重賞制覇となった。同年にはタマペンダスで神戸新聞杯はバンブトンコートにアタマ差迫る2着[23]、京都新聞杯では16頭中11番人気ながらメジロイーグル・サクラショウリに次ぐと同時にインターグシケン・バンブトンコート・キャプテンナムラに先着の3着に入った[24]。
名門・夏村厩舎の所属騎手として、いぶし銀の活躍[25]を見せていたが、1980年は5勝と自身初の1桁に終わり、1981年11勝→1982年20勝と盛り返す[4]。
1981年の4歳牝馬特別(西)では12頭中10番人気のアールグレーに騎乗し、道中ではブロケードを抑えてハナに立ったほか、直線入り口でも先頭に立つ見せ場を作って4着に粘った[26]。
1982年には京都4歳特別で13頭中12番人気のミヤジマルコーを3着[27]に導くと、阪神3歳ステークスではエリモタイヨーでニホンピロウイナーにハナ差迫ると同時にシャダイソフィア・メジロモンスニーに先着する3着[28]に入った。
1983年は4歳牝馬特別(西)で16頭中15番人気のブルービクトリーに騎乗してダスゲニー・ダイナカール・シャダイソフィアに次ぐ4着[29]、第1回ニュージーランドT4歳ステークスではエリモタイヨーで4着[30]に入った。
1984年と1986年には13勝、1987年には2年連続で自身最後の2桁となる15勝を挙げる[4]。
1988年2月27日の阪神第8競走4歳以上400万下・ノースマギーで最後の勝利[31]を挙げ、第11競走仁川ステークス・ジンフーセン(11頭中11着)を最後に現役を引退[32]。
引退後は岩元市三厩舎で攻め専の調教助手となり、テイエムオペラオーを手掛けた[33]。
太字はGI級レース。