武渟川別(たけぬなかわわけ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古墳時代の皇族。
『日本書紀』では「武渟川別」「武渟河別」、『古事記』では「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」と表記される。
第8代孝元天皇皇子の大彦命の子で、阿倍臣(阿倍氏)の祖。四道将軍の1人として東海に派遣されたほか、垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられる。
『日本書紀』に基づく関係系図
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では武渟川別を東海に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命、西道に派遣された吉備津彦命、丹波に派遣された丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている[3]。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により武渟川別は吉備津彦と共に出雲振根を誅殺している[3]。垂仁天皇25年2月8日条では、彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)・武日(大伴連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている[3]。
一方『古事記』では、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。
武渟川別について、『日本書紀』では「阿倍臣遠祖」、『古事記』では「阿倍臣等の祖」として、いずれも阿倍氏の祖であるとしている。
また『新撰姓氏録』には、次の氏族が後裔として記載されている。
そのほか『先代旧事本紀』「国造本紀」では、那須国造(栃木県北東部を支配)について「建沼河命の孫の大臣命」に始まると記されているが、この「建沼河命」は武渟川別に比定される[4]。
武渟川別が派遣された「東方十二道」は会津に至るまでの12ヶ国を意味するが、これは後世の国制を反映したものと見られる[5]。この武渟川別を含む四道将軍の史実性の評価には諸説がある。詳しくは「四道将軍」を参照。