正暦寺(しょうりゃくじ)は、奈良県奈良市菩提山町[1]にある菩提山真言宗の大本山の寺院。山号は菩提山。本尊は薬師如来。菩提山龍華寿院と号し、奈良市と天理市の間の山あいに位置する。
「錦の里」と呼ばれ、紅葉の名所として知られる。また、境内を流れる菩提仙川の清流の清水を用いて、菩提泉という銘柄の清酒が日本で初めて醸造されたという伝承があり、「日本清酒発祥之地」の碑が建つ。山号の菩提山は奈良の東山一帯を釈迦修行の聖地に見立て、鹿野園(ろくやおん)・誓多林(せたりん)・大慈山(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)・菩提山と名付けた五大山の一つである、菩提山に由来する[2]。
正暦3年(992年)に一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建した。一条天皇の勅願寺として往時には報恩院以下86坊の堂塔と伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、治承4年(1180年)に平重衡による南都焼討によって焼失し、寺領も没収された。
興福寺別当として南都焼討で荒廃した興福寺の再興に約10年に渡り尽力した後、その地位を退いた大乗院院主の信円僧正が、建保6年(1218年)に隠遁先として当寺に入り「菩提山僧正」あるいは「菩提山御房」と呼ばれた。信円は当寺を法相宗の学問所として再興すると、以後信円からその座を受け継いだ歴代大乗院門跡が当寺の門跡を兼帯、興福寺の別院正願院門跡となった。
金堂、弥勒堂、講堂、十三重宝塔、経蔵、御影堂、鐘楼、六所社および別院などが整備された。また、報恩院家が開山の兼俊僧正の別院として寺務を管轄し、安養院と別院仰接院は浄土宗の念仏道場となった。
室町時代の正暦寺は、諸白仕込み・三段仕込み・菩提酛造り・火入れなどの近現代の日本酒造りの基礎となる製法を完成させており、しばしば正暦寺は「清酒発祥の地」「日本酒発祥」の地と呼ばれる。このような寺院が作った日本酒は僧坊酒と呼ばれており、特に正暦寺に代表される奈良の寺院が造った僧坊酒は「南都諸白」と呼ばれ高い名声を誇った[3][4][5][6]。
戦国時代の永正3年(1506年)7月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされてしまう。この後再興され、坊舎も82坊を数えるまでになり寺禄も約1,000石あったという。
慶長6年(1601年)には朱印地300石を数え、本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守社などの堂塔伽藍が建ち並んでいたという。
寛永6年(1629年)に火災によって堂塔伽藍が焼失する。江戸時代中期以降は、法相宗の影響が次第に薄れ、真言宗の仁和寺の末寺となった。
天保7年(1836年)に火災にあい、再び多くの堂舎が焼失している。
明治時代の廃仏毀釈によって荒廃する。往時の威容は参道沿いに延々と続く石垣によってしのぶことができる。1967年(昭和42年)に真言宗御室派から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗る。
国立歴史民俗博物館所蔵の「大安寺資材帳」(重要文化財)はもと正暦寺にあったもの。
公共交通機関によるアクセスは困難であり、寺では自家用車またはタクシーでの来訪を推奨している[9]。
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