榎本 七郎(えのもと しちろう、1942年11月11日 - )は日本の元プロゴルファー。
中村寅吉がヘッドプロを務める砧ゴルフ場に研修生として入り、安田春雄[1]・樋口久子[2]・鎌田富雄[3]と共に中村の弟子となる。榎本は、早く上手くなってほしいという気持ちが強い中村から、怒られながら、厳しく指導を受けた[4]。
砧の閉鎖後は、1969年に神奈川県伊勢原市の「伊勢原ゴルフセンター」の開業に携わり、運営会社の役員らと一緒に試打を重ね、陽の光を考慮して練習場の向きなどを考えた[4]。
1971年の第1回美津濃トーナメントで前田新作・草壁政治・野口英雄を抑えて2位に入り[5]、1973年の第3回は初日と2日目に69をマークし金本章生・石井富男を抑えて優勝し[6]、連覇を目指した1974年の第4回は内田繁に次ぐと同時に野口・鈴木規夫・草壁・松井功を抑えての2位であった[7]。
1975年、初めて海外で開催された日本のトーナメント「クイリマ&タカヤマ・クラシック」[8]に出場し、初日を5アンダー67の好スコアにまとめ、石井裕士と並んでの首位タイ[9]でスタート。
1976年の日本プロでは3日目に金井清一・能田征二と並んで首位に立ち、最終日には一時10アンダーにまで到達し、優勝に最も近い存在になっていたが後半崩れて謝敏男(中華民国)と同じく通算7アンダーとした[10]。その後は金井が17、18番で連続バーディーを奪って勝利への執念を見せたことで、勝負は大会史上最多4人のプレーオフへと持ち越される[10]。1ホール目は16番パー3で安田と謝がボギーを叩いて脱落し、榎本は金井と共にパーをセーブして2ホール目へと向かった[10]。2ホール目の17番、3ホール目の18番は共にパーと互いに譲らないまま、再び16番へと戻る[10]。榎本は唇は乾き切って見えるほど緊張し、4アイアンで打ってグリーンを外し右のバンカーに入る[10]。バンカーショットはピンを2.5mオーバーし、パーパットは外れたが、草壁・中嶋常幸・能田・宮本康弘・島田幸作・村上隆を抑えての2位と健闘[10]。
1977年の長野県オープンでは初日に中嶋と共に首位タイの森憲二・内田と1打差の3位に着け[11]、最終日には森・浅井教司、ベン・アルダ( フィリピン)に次ぐと同時に土山録志・新井規矩雄・菊地勝司と並んでの4位タイであった[12]。
1979年の山梨プロアマ[13]では初日を金井・今井昌雪・須貝昇と並んで新井の2位タイ[14]でスタートし、最終日には鷹巣南雄・江原利次・金井を抑えると同時にプレーオフを制して優勝[15]。
1979年の第1回かながわオープンでは岩下吉久・金井と並んでの3位タイ[16]でスタートし、最終日には金井・吉武恵治と並んでの5位タイ[17]に入った。
1979年の長野県オープンでは新井・川田時志春と並んでの2位タイ[18]に入った。
1981年の第1回KSB香川オープンでは内田・宮本省三・藤木三郎・高橋五月・高橋純一と並んでの5位タイ[19]に入り、1983年の武富士サイパンでは初日を金井・青木基正・杉田勇・佐野修一と並んでの3位タイ[20]でスタートする。
1984年のKSB瀬戸内海オープンでは初日を70で首位タイの佐野・藤木と1打差の2位タイ[21]でスタートし、最終日には69をマークするも佐野に1打及ばず2位[22] [23]に終わり、1985年のブリヂストンオープンを最後にレギュラーツアーから引退[24]。
シニア転向後の1992年には関東プロシニアで人見俊広と並んでの10位タイ[25]、第一生命カップシニアでは内田袈裟彦・金井と並んでの8位タイ[26]、スポーツ振興カップで野辺地純、ビル・ダンク(オーストラリア)と並んでの10位タイ[27]、名古屋テレビカップでは鈴村久・豊田明夫と並んでの10位タイ[28]に入った。
1993年にはアイスターカップで郭吉雄(中華民国)と並んでの2位タイ[29]に入った。
1997年の日本プロシニアでは初日に首位タイの中山徹・鈴村に1打差3位タイ[30]でスタートし、2日目には4アンダーで単独首位に浮上[31]するが、3日目には3位に後退[32]、最終的には9位[33]に終わった。