森嶋 通夫(もりしま みちお、1923年7月18日 - 2004年7月13日)は、日本の経済学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授、同校サー・ジョン・ヒックス教授、大阪大学名誉教授。イギリス学士院会員。大阪府出身。
1923年に大阪市に生まれるが幼少期は神戸に在住し、1936年に神戸市の本山第一小学校を卒業する。七年制の旧制浪速高等学校を卒業後、1942年10月に京都帝国大学経済学部に進学する[1]。大学在学中の1943年、学徒出陣により、20歳で徴兵される[2]。1943年12月大日本帝国海軍に入隊し[3]、通信学校を出た後、長崎の大村航空隊へ配属。暗号解読を担当する少尉として赴任した[2]。大村航空隊では、通信将校として、数多くの特攻隊との通信、沖縄に向かった戦艦大和との通信、沖縄戦の通信などを担当した。
海軍中尉で敗戦を迎えた後、高田保馬・青山秀夫について経済学・社会学を学び、1946年に京都大学を卒業する。その後は経済学部の助手を経て、1950年27歳の若さで、京都大学経済学部の助教授となるが[4]、1年後の1951年大阪大学法経学部助教授に転出する[5]。1954年3月、大阪大学経済学部付属社会経済研究室の創設とともに、助教授として併任する[6]。1963年に、40歳で大阪大学教授となる。1966年4月、大阪大学社会経済研究所に改組され、安井琢磨とともに日本における近代経済学研究の中心として広く世界に名を轟かせる存在となったといわれる[6]。その後、研究所内部での意見対立もあって(依田高典は森嶋が日本を飛び出した理由を同僚との喧嘩別れとする[7][8])、1968年に渡英しエセックス大学客員教授、1970年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の教授として、1988年の定年まで在籍した[4]。
LSEにおいては、1978年に Suntory Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines(STICERD - 「スティカード」と発音)という研究所の設立に貢献し、初代所長となる[9]。名前が示す通り、サントリーとトヨタからの寄付金を元に設立された研究所だが、イギリス学界では私企業からお金をもらって研究をすることは伝統的にタブーとされていて、そうした固定観念を変えるべく同僚の教授たちの説得に奔走した(その後、現在に至るまでSTICERDは、公共経済学、開発経済学、政治経済学の分野で多数の研究成果を経済学界に送り出している)。
1965年に41歳で日本人として初めてエコノメトリック・ソサエティー(国際計量 経済学会)会長に就任した(後に宇沢弘文 が1976年に、1994年に根岸隆が会長に就任)[10][4]。
森嶋の業績には3つのカテゴリーがあり、一番目はデヴィッド・リカードの体系に基づく均衡理論の動学化である。二番目は経済学に社会学的アプローチを加味した交響的経済学を提唱したことである。三番目はレオン・ワルラス、カール・マルクス、デヴィッド・リカードの経済学の学説史研究である[1]。数理経済学者としてレオン・ワルラス、カール・マルクス、デヴィッド・リカード等の理論の動学的定式化に業績を残している。最も影響力を持つ研究はワルラス理論だが、マルクス理論を数理化させた「数理マルクス経済学」を手掛けている。弟子の小室直樹によれば、森嶋はノーベル経済学賞の候補として何度か名前が挙がっており、最も受賞に近かった日本人だという[2]。
森嶋の経済学が注目された理由は、アメリカの経済成長理論は一部門または二部門を扱うモデルに過ぎなかったが、森嶋とヒックスは多部門セクターを扱う産業全体に対する一般均衡分析を動学化したことにあった[1]。
恩師に高田保馬、青山秀夫。弟子に久我清(大阪大学名誉教授)、阪大時代の弟子に小室直樹、LSE時代のクリストファー・ピサリデス(ノーベル経済学賞受賞)がいる[12]。